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2012年4月22日 - 2012年4月28日

2012年4月27日 (金)

“Haiti after Earthquake”

 私も図書館で借りて「Haiti after Earthquake」を大ざっぱに読んでみました。
 地震前に国連軍のトップであったHedi Annabi氏に言及したところが印象に残っています。
 この人は、数カ国語を流暢に操るけれども、ハイチのクレオール語は解さないとのこと。それをさる機会に「sharply」に知らしめられた、とファーマーが書いています。Annabi氏が同席する席で、プレバルとクレオールで話し始めたところ、注意されたというわけです。
 まるで映画にでも出てきそうな、「緊張感が走る」場面を想像してしまいます。でも、ポール・ファーマーはそれ以上は何も書きません。自分はAnnabi氏の言語能力について触れただけだと言いたいわけでしょう。その中で「sharply」の言葉が印象に残るのは、予定どおりなのだろうと思います。

 Annabi氏は既に亡くなってしまいましたが、代わりになる人が赴任してきたことでしょう。私は、別にファーマーを弁護するつもりはありませんが、彼は広告塔の役割を求められているだけで、あまり権限を持たされていないのかも知れません。
 自分の裁量で国連を動かせないのに、非難される役割だけ果たすのはかなわないと感じているのでしょうか。

 あちこちから伝わってくる彼の言葉が“過度に”シニカルで嘲弄的な響きを持っているような気がします。「satirical」というのでしょうか、非常にイヤな感じがします。
 例の「drinking stool-laden water」というのもそうですし、同じ発言の前の部分でも気になる表現があった記憶があります。ハイチの場合は「何パーセント効果的」なのかは問題にならない。他の地域はともあれ、ハイチでは何パーセントの効果だろうとゼロでさえなければ充分なんだ、とか。
 他の場所での、ファーマーのコメント。
 “未来の人類が、このハイチのコレラを振り返って何か言うとしたら、たぶんこんな言葉になるだろう、「彼らは運がわるかったんだね」って。”
 私に聞こえてくるのは、とても不健全な絶望と怒りです。
 気のせいでしょうか。実際は、ルワンダに安住の地を見いだしてルンルンしているのだとしたら、おめでとうございます、です。

 私の予想していたとおりに(誰にでも想像がつくことではあります)、ファーマーのルワンダとの縁はクリントン経由でした。
 おそらく、彼は(これも“いかにも”の話ですが)クリントンの「政治力」に幻惑された――いわゆる悪魔の誘惑にのせられてしまったのでしょう。

 まあ、ポール・ファーマー個人は要するにどうでもいいことなのですが――。

 そういえば、他方のEzili Dantoさん。
 この間、ホームページを見てみたら、どこかで見たような男の写真が載っていました。
 Dantoさんはと言えば、その男に感謝を奉げている。
 記事を見ると、やはりあのファラハンだかファラカンだかいう人物です。ネーション・オブ・イスラムがハイチ(Dantoさんの団体)に義捐金を贈った旨、それに対する感謝の言葉が載せられていました。
 政治というのは、そういうものなのかも知れませんが、すっきりしないのも事実です。マルコムXの暗殺について、自分が黒幕であったことをほとんど公言している人物からでも援助してもらうものなんでしょうか。

2012年4月25日 (水)

タブーについて 1

 複雄複雌の集団を形成する類人猿にあって、性的なメッセージは「なだめ」のメッセージであり、「警戒解除信号」であることが観察されています。例えば、チンパンジーの場合、母集団を離れるのはメスの方なのですが、新しい集団に参加する際には発情期にあることが有利ですし、攻撃を回避するためのオス同士のマウンティング行動なども広く知られています。

 それでは、人間の場合はどうでしょう? 性的なイメージは、「警戒解除信号」になっているでしょうか? 多少の議論が必要かもしれませんが、結論から言うとぼくはなっていないと思うのですね。

 これは、霊長類としての人間の、ある種例外的な特徴と関係します。どういうことかというと、複雄複雌の集団を形成する類人猿は、みな乱交型なんです。一方、テナガザルのような一夫一妻型の場合は、それぞれがナワバリを持っていて群をつくりませんし、ハーレム型のゴリラも複数のオスは共存しないのです。
 人間の人間たる所以は大きな社会を形成しているところにありますが、それは当然のことながら複雄複雌集団になるわけで、〈本来なら〉乱交型のつがい方をする筈なんです。ところが、人間に固有の事情があって、一夫一婦型のつがいをつくっています。

     人類の基本形が「一夫一妻型」なのか、それとも「一夫多妻型」なのか、議論が分かれるところかも知れません。『人間の由来』を書いている河合雅雄などは、人類の人類である所以は「家族」を形成するところにあると言っていますが、どうやら「一夫一妻型」を念頭には置いていないようです。
     文化人類学の知見によると、「一夫一妻型」の婚姻を採用している文化は、むしろ少数派だとのこと。しかし、「一夫多妻」を選べるということと、実際に選んでいるということは別のことです。「一夫多妻婚の社会で、ほとんどの男性は、実際には妻を一人しかもっていない。」(ギデンス)というのが実態なんですね。
     ぼくは「一夫一妻型」が基本なのではないかと考えています。(もう少し正確に言うなら、「一夫一妻・不倫型」ということになるでしょうか)

 さて、固有の事情とは、人間の子どもが非常に無力な存在だということです。馬の子どもなんて、生まれてしばらくすれば、もうその辺を歩いています。この点では、人間は、生まれてすぐには空を飛べない鳥類に似ています。
 乱交型の素質を持ってはいるのだけど、父親の働きが必要な霊長類が人類だ、と言えるのではないでしょうか。

 固定したつがいを形成するということは、言い換えるとつがいが「排他的」であることを意味します。つまり、「性」はオス同士の抗争の「争点」でなければなりません。
 一方、どういう巡り合せによるものか(狩りの共同作業が理由だと思います)、ゴリラやオランウータンなどとは違って、人間は複数のオスとメスが集団をなす生態を選んでいます。これは、とても本質的なことで、そうした集団=社会の存在なしには、人間の文化はあり得なかったでしょう。
 固定したつがい関係という抗争の火種をかかえつつ、なお集団を維持していかければならない――ここに人類の特徴があるのだと、ぼくは思います。

 あまりにも当たり前のことを書いていると言われるかも知れません。しかし、ぼくが主張しているのは、その当たり前のことが、生物としては非常に例外的なものだということなのです。そして、それを例外的なものだと明確に捉えない限り、人間のあり方を理解することはできないのではないかと、問うているのです。

 本来は矛盾する二つのこと――つがいと社会とを両立させたところに人間の独創がありました。では、どのようにして、それを可能にしたのか?
 抗争のまとになる「性」を日常の生活からは抑圧してしまうことによって、それを可能にしたのだ、というのがぼくの考えです。

 これが「性」がタブーであるということの意味ではないでしょうか。およそ人類の文化で、「性」がタブーでない文化というものは一つもありません。寛容度の違いはありますが、往来でセックスすることに何の抵抗もない、というような社会は存在しないのです。

 「近親相姦」の禁止もまた、すべての社会に共通してみられるタブーです。
 文化によって「近親」の概念が異っているという事実から、このタブーが非常に恣意的なものだと指摘する人がいますが、上の観点から考えると、このタブーも、基本的には単純で、かつ必然的なものだと理解することができます。
 近親とは、インセスト・タブーのカテゴリーに入る人達のことであり、インセスト・タブーとは近親とのセックスの禁止です。再び、この場合の近親とは何かと問うならば、具体的には、身近にいる異性のことをいうわけです。つまり、身近の異性をセックスの対象と考えてはいけないというのがインセスト・タブーの意味なのではないかと考えられます。
 例えば、交叉イトコと平行イトコとどう違うか、頭の中で考えると如何にも複雑そうですが、これは簡単に言えば、身近にいる異性かどうかということです。

 という訳で、性は本質的に「隠すべきもの」という性格を持っているのではないかと思います。そして、社会的には、祭りなどの非日常的な次元でのみ、その存在が認められてきたと言えます。
 ところが、そうした形で、いうなれば抑圧的に安定していたあり方が、ゆらいできたのが近代だと考えることができます。

 フーコーは、セクシュアリティの概念を近代西欧の発明になるものだと言いましたが、そんなことはないでしょう。噂によればラカンが日本人に無意識はないとのたまわっていたとか。フランス人というのは骨の髄まで夜郎自大なんでしょうか。とにかく、日本でだって、江戸時代にはセクシュアリティの突出が見られるのです。
 要するに、肝心なのは「西欧」という点ではなく、「近代」という点なのではないか? そして、簡単に言うなら、都市というものの出現こそが、性の突出を招来したのではないかと思うのです。

 「性的でない他者=近親」のみが身近にいた共同体社会から、「近親でない他者=性的な他者」が身近にいる社会――都市へと、人間の住む環境が変わっていったわけです。これは、人類の歴史としては、想定されていなかった事態で、今(この二、三百年ほどという意味ですけど)はこうした環境の変化に四苦八苦しながら、人間が適応しようとしている時期なのではないでしょうか。

“痛み”について――痛いものは痛い

 「介護の常識は世間の非常識」という話です。<br>
 人が「痛い」と言っているからには、その人はたしかに「痛い」んじゃないか、というのが私の基本的な考え方です。<br>
 よく「かまってもらいたいから言っているだけ」などと言う人がいます。私の考え方に比べると随分とウガッた深い洞察のお言葉みたいです。でも、どれだけの経験と研究を積まれた結果の判断なんでしょう?<br>
<br>
 以下は、きちんと文献を示して言うだけの準備は今はありませんが、とりあえずのキーワードは二つ出しますので、グーグルか何かでざっとしたところを検索してみていただいてもいいかと思います。<br>
 「腰痛学会」というようなものがあるんだそうです。頭に世界がついたか日本がついたかしたその「学会」のトップを勤めている人、「腰痛」の一番最先端の研究をしている人が「福島大学」の学長か、学部長とのこと。いわゆるその道の「権威」というやつです。で、その人が言うには、腰痛の原因の80%は現在のところ分かっていないのだそうです。<br>
<br>
 まあ、別に驚くような話では、ほんとうは、ないんですけど。医学の水準というのは、「腰痛」に限らずそんなものでしょう。<br>
 きちんと研究しているからには、分からないということを当然分かっているわけです。また、それをきちんと我々に伝えるのは、やはりエライ人なんでしょう。<br>
<br>
 もう一つだけ。<br>

 「幻肢」というのを聞いたことがあると思います(このATOKでもすんなり変換できました――と書いてから、気になって、いちおう確認してみたら「登録単語」でした。残念。自分で入れた言葉でした。このATOKはバージョンが15ですので、現在はどうでしょう?)<br>
 ともかく幻肢です。事故で失ってしまった右手の、存在しない筈の人差指が痛む――というような話。<br>
 これは、神秘でもなんでもなくて、メカニズムは現在ではきちんと理解されています。人差指が痛いと人が感じるのも、その指から脳まで神経がつながっているからこそです。指先からいきなり脳に行くわけではなく、その途中の道筋があるわけで、そうするとその道さえ残っていれば、最終的には指自体はなくてもいいことになります。<br>
<br>
 「かまってもらいたくて」派のヘルパーは、例えば「ナツさん、右手は切断されちゃって今は、ないでしょ。そこが痛いわけないじゃない」なんて言うんでしょうか?<br>
 「病院に行って診てもらったけど、異常なしだって言われた」<br>
とかとか。でも、これはもう少し正確に言えば「異常を発見できなかった」「症状の原因を検査では特定できなかった」のです。<br>
 だって、「腰痛」の世界的権威と言われている医者が分からないと言っているんですよ。そこらの――って差別するつもりは、あるんだかないんだか――医者が分からないからといって、症状という「事実」を否定してしまうのは、話がまったく逆なのじゃないか。そう私は思うのです。<br>
<br>
 百歩ゆずって、というやつでいくと「幽霊が出たということは事実かどうか分からないけど、幽霊が出たって某氏が思ったのは事実に間違いない」というのが論理というもの。<br><br>
 その人が痛がっている事実を認めた上での介護と、否定してしまってする介護とでは絶対に差があると私は思います。特別に優しい人でなくたって、痛がっている人を目の前にしたら、どうにかしてその痛みを取り去ってあげたいと感じるものではないでしょうか。<br>
 痛みの除去のためには、原因を特定してそれを解消してあげるのが有効です。しかし、“腰痛”の先生がおっしゃっているように、その原因の多くは“分からない”わけです。また、原因が分かっていても何とも出来ない場合も少なくありません。<br>
<br>
 そんな場合に対応しようというのが、最近広まってきた「ペイン・クリニック」という診療科です。原因の除去はさておき、ともかく症状の解消を図ろうとします。不思議なことに「介護」の現場で、どうもこの方向性が出てきません。別に診療科の名称自体はどうでもいいのですが、「原因の特定・除去」ではなく「苦痛の除去」を念頭においた介護が必要なのではないかと日々感じています。<br>
<br>
「男なんだから、少しは我慢しなさい」と入居者を叱りつけるヘルパーもいます。ひとの痛みは分からないものだということを徹底的に理解して、介護をしていく必要があると私は思います。
<br><br>
 もうひとつ。<br>
 小難しいことをいうようですが、痛みには人の精神を蝕む作用があります。それが進むとパーソナリティの崩壊といったところまで行き着きます。<br>
 痛みというのは、もともとは生命の危険を生体に告げ知らせる機能であろうと思われます。痛みの持続は、つまり危険の持続ですから、つねに危険であり続ける“世界”とは自分にとって何なんだ、ということになります。いわゆる世界の“不条理”さに直面してしまうのですね。<br>
 “自己”は、その生体にとって世界をどう捉えるかを構築するための装置ですから、世界を“不条理”としか捉えられなくなってしまっては、“自己”を維持・継続できなくなってしまいます。<br><br>
 大げさなことを書いていると思われるかもしれませんが、持続的な痛みというのは、ほんとうに恐ろしいものなんです。<br>
 痛みの概念をもう少し広く――ただし、ごく常識的な範囲で――考えたとき、「身体的苦痛」と「精神的苦痛」の二つに分けられます。<br>
 例えば、冤罪事件で、通常とても考えられないような行動――自分が「死刑」になる可能性のある犯罪を、やってもいないのに「自白」してしまったりする――が見られるのは、要するにここでは、取り調べの絶え間ない「苦痛」を強いられて、一時的にせよ、精神が崩壊してしまったためと考えられます。<br><br>
 「痛み」は人間の精神とその尊厳に対する「挑戦」だと捉えていきませんか? それが私からの提言です。

2012年4月23日 (月)

クリントンが謝罪

 ハイチの米作を破壊してしまったことを、クリントンは2010年に謝罪しているわけですね。ちょっと信じられないようなレベルの言い訳です。米作りの手間ひまをこちらが引き受けてあげれば、ハイチが一挙に工業化の段階に進めると思ったとか。
 この「謝罪」について、Democracy Nowのインタビューで、今度はポール・ファーマーが――よくぞ男らしく謝ってくれた「同じアメリカ人として“great relief”を感じた」って言うのでした。
 クリントンは、ルワンダでも「謝罪」してましたね。よそ見をしていたので、ついつい気がつかなくて「ごめんね」といった主旨。これについても、ポール・ファーマーは高く評価しているようです。

 クリントンの斡旋で、ハイチに被災地の「仮設教室」として提供されたトレーラーが粗悪なつくりで、中の気温が37.8℃になってしまい使い物にならない。しかも、危険レベルの2倍半のホルムアルデヒドが検出されたとか。おまけに、これが米国内で既に告訴され裁判が行われているシロモノです。これは「気がつきませんでした、ごめんなさい」で通用しません。
 この件についてコメントを求められたファーマーさんの言い分は――残念ながら私の語学力では理解できませんでした。何を言っているのか、さっぱり……。

 と、この辺までは、立場上いろいろむずかしいんだろうなあ、と思えなくもなかったのです。
 ところが、Ezili Dantoさんのブログを見ると、ファーマーは「Totall sell-out」だと断定しているんですね。
 ハイチのコレラ禍に対して彼がワクチンを推奨しているのは知っていましたが、それは有効な手が打てない無力感が言わしめている可能性もあると、私は勝手に推測したものでした。必要な量のワクチンを用意するなんて、とても実現しそうもないことが打つべき手だてだならば、言い訳がたちますから。

 でも、そんなのではなくて――
Dantoさんによれば、ワクチン・キャンペーンをして、また金儲けをしようということなんだそうです。
 うーん、そこまでの話になると、かなり黒くなってきますね。やはり、ポール・ファーマーは変節したとみていいのでしょうか。

パレスチナの詩人による“Revenge”

 パレスチナの詩人、タハ・ムハマッド・アリ(Taha Muhammad Ali)さんの詩です。
 「転載」というやつになりますが、対応はクレームがついてから考えるということで。
 多くの人に読んでいただきたいと思って、載せました。
 以下。

“Revenge”

At times ... I wish
I could meet in a duel
the man who killed my father
and razed our home,
expelling me
into
a narrow country.
And if he killed me,
I’d rest at last,
and if I were ready―
I would take my revenge!
*
But if it came to light,
when my rival appeared,
that he had a mother
waiting for him,
or a father who’d put
his right hand over
the heart’s place in his chest
whenever his son was late
even by just a quarter-hour
for a meeting they’d set―
then I would not kill him,
even if I could.
*
Likewise ... I
would not murder him
if it were soon made clear
that he had a brother or sisters
who loved him and constantly longed to see him.
Or if he had a wife to greet him
and children who
couldn’t bear his absence
and whom his gifts would thrill.
Or if he had
friends or companions,
neighbors he knew
or allies from prison
or a hospital room,
or classmates from his school …
asking about him
and sending him regards.
*
But if he turned
out to be on his own―
cut off like a branch from a tree―
without a mother or father,
with neither a brother nor sister,
wifeless, without a child,
and without kin or neighbors or friends,
colleagues or companions,
then I’d add not a thing to his pain
within that aloneness―
not the torment of death,
and not the sorrow of passing away.
Instead I’d be content
to ignore him when I passed him by
on the street―as I
convinced myself
that paying him no attention
in itself was a kind of revenge.

歌の効用――心のストレッチ体操

 さる有料老人ホームの入居者の方が、歌うことは健康にいいんだとよく言っていました。主旨はいわば生理学的なもので、その基本的なところは声を出すのが身体にいいというあたりだったかと思います。
 それは確かに間違った主張ではないでしょう。でも、私はもう少し違った観点から「歌」を捉えています。その辺の話をしてみたいと思います。

 今、若い人たちがどんな音楽を聴くのか、私はよくは知りませんが、EXILEがいいとか、嵐やアユがいいとかというようになるみたいです(大人げないといわれるでしょうか。〝I Wish For You〟というのは、ひどすぎるエイゴです。自動詞と他動詞の区別もつかないのか、と言いたくなります。「wish」は目的語をもつ動詞ですから「for」をもって来てはいけません。「I wish you a merry christmas and a happy new year.」とか「I wish you many happy returns of the day.」というようになるのが英語です。「あなたに」「何を」wishするのかを言わなくては、何も言ったことになりません。かっこつけているつもりで、アホを歌っているのは実にかっこわるいと私は思ってしまいます)。
 ともかくハヤリは「J音楽」です。洋楽は売れません。まあ、いいことだと言えなくもないですけど。

 私の若い頃は、基本は洋楽でした。プレスリーがいいとか、ベンチャーズがいいとかいうのはけっこう以前になるのでしょうが、ビートルズ、サイモンとガーファンクル、イーグルス、カーペンターズ、とみんなあちらものです。
 そんなのはポップスだろうと言う人もいるかもしれません。まあ、ロックとなれば有象無象いくらでもあります。レッドツェッペリン、クイーン、ディープパープル、ELP(ELTではありません)、ピンクフロイド、キングクリムゾン、とかとか。(女の子たちは、実はアンディ・ウィリアムズがよかったりして……)

 日本の「青春歌謡」は、最初「フォーク」と言っていました。それがいつのまにか「ニューミュージック」になり、いまでは「Jポップ」ですか。
 私はもともと詳しくはなくて、この周辺でなんとか輪郭だけでも分かるのは「ニューミュージック」までですね。単純に言うと、井上陽水も吉田拓郎も、もともとはフォークだったのが、荒井由実が出てきてからみんな一緒くたに「ニューミュージック」になったみたいです。(フォークは元祖が岡林信康ですから、陽水も拓郎も最初からポップスだったという方が本当のところかもしれないけど)

 さて、何を言おうとしているのか。
 フォークもニューミュージックも他方にまだ「歌謡曲」というのがしっかり存在していて、それに対するアンチテーゼという意味合いを持っていました。
 洋楽を聴くのも似たような感じで、その方がカッコいいつもりでいたわけです。
 私なんかも、「歌謡曲」というのはつくりものの歌、プロが商品としてでっちあげたものだというように思っていた時期があったのでした。

 最近あまり聞かなくなったように思いますが、その昔には「シンガー・ソングライター」という言葉がありました。そういう人たちの、自分で作って自分で歌うというカタチの歌が本来のあり方なのじゃないか――けっこう多くの若い人たちがそんな風に思っていた時期があったのです。

 やや図式的な書き方になりかけています。
 実は、最近になって森昌子を発見(?)したのが私ですが、そのずっと以前から認識は変わっていました。
 ただ、歌謡曲をどう捉えるか、森昌子がどのくらい素晴らしいかという風に話をもっていくと分かりやすいのではないかと考えて、そんな筋道で書いていこうかと思います。

 人は日常生活では「全力疾走」をすることは、まずないと思います。全力で走った時に出る速さを、走りにおけるその人のポテンシャルと捉えるなら、自分のポテンシャルを充分に発揮することを通常の生活では行なっていません。
 たぶんそういう生活をずっと続けていくと、ポテンシャルは少しずつ落ちていくでしょう。そんな人が、例えば山で熊に出会って全力で逃げなければいけないという場面に遭遇したらどうでしょうか。自らのポテンシャルが問われるべき場面で、それを発揮できないまま被害に合うということになりそうです。

 私の言おうとしているのは、次のようなこと。
○日常生活上においては全力疾走する必然性はない
○にもかかわらず――上の熊との遭遇のような可能性を考えると――日常生活における全力疾走は無意味とは言えず、生命としてのヒトにとって、実はプラスの利益を持っていると言えそうだ

 スポーツの快感というのは、こういうところから来るのではないか。そう私は考えるのです。つまり、結局のところ、生命にとってプラスであるから、それを快感と感じるのだろうと。

 前節からの歌の話の続きをしています。
 老人ホームでの歌が問題なのですが、根底のところにはごくまっとうな「芸術論」があるツモリです。
 芸術とはいわば「日常生活における全力疾走」であるというわけです。

 身体運動と同様、私たちはふだん日常は感情のポテンシャルを生ききっていません。
 本当は、ものすごく怒ったり、猛烈に悲しんだり、天にも昇るばかりに喜んだりするポテンシャルを人は持っているのではないでしょうか。しかし、それをとことん生ききることは、滅多にないのが事実です。

 映画・演劇・文学などが、私たちにとって実際にどういうものであるのかを思ってみましょう。それらを「鑑賞」している私たちは、そこで登場人物たちとともに擬似体験を生きています。ハラハラ・ドキドキというのはそういうことですね。

 単純にまとめてみるなら、芸術は情動のストレッチ体操だということになります。

 さて、歌を聴くのと歌うのと、根本的な違いはないと思います。というのは、聴いているときに自分も――声を出そうと出すまいと――必ず一緒に歌っているからです。自分も歌っていなかったら、歌とは聞こえないでしょう。ただの音としか思えないはずです。

 音楽は、その本質に一定の情動を含んでいます。より抽象度の高い情動から、ずっと直接的な情動まで幅はあります。また、器楽と声楽とでは「言葉」が加わってくるかどうかで多少の違いはあります。しかし、本質は変わりません。

 上に書いたのをそのまま運用すると、歌を歌うのは情動のストレッチ体操なんですね。
 で、いろいろな歌はその中に一つ一つ独自の情動を含んでいます。また、いうなればその情動のレンジの高い歌から、そう高くない歌までいろいろあります。

 前節で、ホームのお年寄りの話を紹介しました。その方の言い分からすると、どんな歌でも大きな声を出して歌えば健康にいい、というようなことになるでしょう。
 これに対して私の考えでは、情動レンジの高い歌を歌うほどストレッチ効果が高くなるということ。その方が快感も大きいわけです。

 私はずっとそういう考え方にもとづいて、入居者の方たちと歌ってきました。
 入居者の方たちも、歌い終わったあと、ほとんど頬を上気させんばかりにして、喜んでいました。ストレッチ効果の高い歌を歌って、ハートに新鮮な刺激を受けたからこそだと思います。

 グループリハなどで、毎回同じ童謡・唱歌ばかりを歌わせているのに、だから私は批判的でした。いつもいつも「ふるさと」ばかりなのは安易もいいところだと思っていたのです。まあ、最低でも声を出すことの生理的な効果がないわけではありません。でも、それだけではせっかくの歌の機会がもったいないではありませんか。

 以前、紅白歌合戦を少し観た(?)とき、途中から聞きだしたこの番組を、結局なかばで消してしまいました。和田アキ子の歌で、ついに我慢しきれなくなったのでした。

 私はもともと和田アキ子が好きな訳ではないけど、「笑って許して」あたりを代表として(実はこの歌手はヒット曲はメチャクチャ少なくて、ディスコグラフィをみても9割以上は誰も知らない歌ばかりです)他の誰にも代替できない世界を持っていないわけじゃないとは思っていました。でも、その時の歌ははひどすぎた。まったく歌になっていない。なんでこんな歌もどきを聞かなければならないのか、と私は腹を立ててしまったのでした。
 和田アキ子より前に出てきた「歌」は、まあなんとか歌らしくはありました。でも、はっきり言って、みんな歌というのをどれだけ真剣に思っているのか、疑問に感じます。 ただのファッション、ソレっぽくやっているだけとしか感じられません。歌心というのが、なんにもない。

 学生の頃からの「洋楽」偏重傾向が残っているのでしょうか。
 私は、海外の歌手たちの方がよほど歌をマジメに、真摯に捉えているように思えてなりません。まあ、機会があったらYOUTUBEなどを利用して、フィービ・スノウ(Phoebe Snow)やマイケル・ボルトン(Michael Bolton)あたりの歌を聴いてみてください。
 森昌子もそういう意味で「歌心」を持った歌手だったと私は思います。カムバックして以後については、残念ながら推奨はしません。

 よく、人生経験の積み重ねが歌に反映するというようなことを言う人がいますけど、私は必ずしもそうは思いません。とんでもなく飛躍した喩えを敢えてさせていただくと、水泳みたいなものです。中学生がオリンピックの金メダルを取れる種目というのはそうそうありませんが、絶無ではないという不思議を否定できない。「歌心」のあるなしも、年齢とは関係なさそうです。

 だいたいの肝心なところは、ほぼ書いたと思います。

 森昌子の「越冬つばめ」、この人の歌う「さざんかの宿」が(当然、他にも沢山あります)好きです。言ってみれば、つくりものの、嘘っぱちの歌ではあります。基本的に、歌われているような経験のない者がつくり、経験のない者が歌い、経験のない者が聴く、ための歌です。聴いて気に入った、経験のない素人が、カラオケなどで自ら歌ったりする、ための歌です。

 ただ、上にも書いたように“さざんか”の宿で“不倫”をするポテンシャルは、たいていの人にあって、実際に経験するかどうかにかかわらず、そのポテンシャルに“真実”がないとは言えないのです。
 自分のポテンシャルをいろいろなカタチで生ききるというのが、生きることの本質ですから、それをつくりものの歌に託して生きるということにも意味はあると私は考えるわけです。

 文学になぞらえて言えば、自伝的な小説だけがホンモノではありません。フィクション=仮構であっても、人間に共通するポテンシャルを含んだ小説というのはあり得るのですね。

 悪口になりますけど、吉田拓郎の最初期(もしかしたらデビュー曲)に「今日までそして明日から」という歌があります。この歌詞の出だしでサワリでもあるのが「わたしは今日まで生きてみました」というフレーズです。
 自分で作詞・作曲して自分で歌っているウタなんですが、だからといってこんな歌がホンモノと言えるでしょうか。“今日まで生きてみた”なんて人間がいるはずがありません。(いちおう断わっておきますが、この人にはいい歌もたくさんあると思っています)

 まあ、こういうタグイはいくらでもあって、ただその一つの例を出しただけです。
 私が言いたかったことにもどります。
 お年寄りにも“悲恋”の歌、“不倫”の歌を大いに歌ってもらおうではありませんか。
 童謡・唱歌ばかり歌わせるのは、バカにしていますし、ほとんど一種の“虐待”ではないかと思うのであります。

マネー/ローレンツ/フロイト

 以下の人名から、どんなことを連想されますか。という話です。
 ジョン・マネー、コンラート・ローレンツ、ジグムント・フロイト。

 最後のフロイトのところには、かわりにジャック・ラカンの名をあげたい気持ちもあります。また、人名というところにこだわらずに、ここを「精神分析」としてもいいかなと思ったりもします。

 さて、本題。
 ジョン・マネーは『性の署名』という本を出していて、これがフェミニズムなどを含めて、大きな影響力を持ちました。具体的にいうと、性差が生まれつきのものではなくて、後天的に決定されるものだという考え方を広めました。

 また、ローレンツは動物行動学の創始者として有名で、その著書『攻撃』はベストセラーになりました。「刷り込み」という概念を提唱したことでも有名です。
 『攻撃』は、副題を「悪の自然誌」といい、人間の攻撃性についてのローレンツの論考は、社会の人間観に大きな影響を及ぼしました。この中でローレンツは、オオカミの行動などを例に上げたうえで、同じ種の中で殺し合いをするのは人間だけだと主張しています。

 フロイトや精神分析については、特に説明の必要はないでしょう。
 さしあたって私が注意を喚起しておきたいのは、精神分析が神経症、精神病の治療理論であったということです(もともとフロイトが対象にしたのは「神経症」であり、精神病に対しての有効性についてまでは積極的に主張していなかったようです。しかし、その後、精神分析がアメリカで大発展した段階ではそういった遠慮はかなぐり捨てられてしまいました。ラカンなども、精神病のみならず同性愛の由来まで、その理論で説明可能だとしてきたのでした)。

 以上、お三方というか三つの分野に関して、私自身すべて洗礼を受けてきてはいます。
 たとえば、ローレンツの『攻撃』などは、実際メチャクチャ面白い――興味深い――本で、夢中になって読みました。フロイトも同様で、読んでいてとても啓発される著者ですし、ジョン・マネーも、それなりに興味深く読んだ記憶があります。

 実のところ、ラカンは少し違います。いくら読んでも腑に落ちることのない読書経験をさせられましたし、こいつはインチキではないかとずっと感じていました。だいたい、ファルスがどうこういう理屈がまともな学問であるはずがないでしょう。
 しっかり批判するためにも、まず主張を理解する必要があるかと思い、述語論理学の初歩をかじることまでしたのは、ふり返ってみると、我ながら随分とつきあいがよかったものでした。
 でも、量化子の意味が把握できた上で読んでみると、ラカンの持ち出してくる式なんてただのナンセンスだと分かるんですね。それ以来、ラカンにつき合って時間の浪費をするのは、きっぱりとやめました。

 マネーの『性の署名』です。

 ジョン・マネーという名前を知らなくても、この人が広めた考え方については、けっこう知っている・耳にしている場合が多いかと思います。たとえば、小倉千加子はその処女作『セックス神話解体新書』で、マネーを紹介していて、それは100パーセント肯定のカタチでありました。また、行政のほうでも「ジェンダーフリー」を目指して進められている動きは、もとをたどればマネーの学説に依拠したものだと言えます。

 こんな話です。
 割礼の手術に手違いがあって、ペニスを焼き切られてしまった男の子――生物学的にまったく疑問の余地なく男性であった子ども――を、マネーの指導のもと、親が女の子として育てる。男の子は、何の問題もなく女の子として成長した、という報告がなされます。
 性差は生物学的なものではなく文化的なものだという理論が実証されたというのが、『性の署名』におけるマネーの主張です。

 この事例に疑問を持って、追跡調査した研究者がいました。ミルトン・ダイアモンドといいます。結論から書くと、マネーの報告は事実に反しており、子どもは自身の「性」に違和感を抱きつづける混乱した時を過ごし、大きなストレスをかかえていたことが判明します。青年は、思春期になってから男性として生きることを選択しなおしますが、最終的には自殺してしまいます。
 この事例をめぐっては、ノンフィクション『ブレンダと呼ばれた少年』(2000年・2005年)という本が出ています。  また、「デイヴィッド・ライマー」の語でwikipediaに記載があります。興味のある方はこちらを参照してください。詳しい事情が紹介されています。

 マネーの学説は、現在では完全に否定されていると言っていいと思います。しかし、上野千鶴子や小倉千加子をはじめとして、いわゆるフェミニズムに組する学者のかなり多くが、そうした事情をあえて無視し続けるという知的不誠実さを露わにしています。

 二つ目のローレンツです。
 『攻撃』は、現在では「古典的著作」として広く認められている、いわば最重要文献――人間とは何かを考える際の基礎的な文献――の一つという位置を獲得していて、いまでも継続して読み続けられています(ネットのブログで読後感を書いている人がいたりもします)。
 私も、つい数ヶ月ほど前でしたか、小説家の中村文則が新聞の夕刊に寄せた文章の中で、ローレンツに言及していたのを読んだ記憶があります。
 この人は、『攻撃』の内容にそのまま準拠した上で、自説を展開していました。つまり、同一種内で殺し合いをするのは人間だけだというローレンツの説をまったくの事実とし、それを前提にした考えを述べていたのでした。

 残念ながら、ローレンツのこの説は現在では完全に否定されています。
 日本の霊長類学者である杉山孝丸が、猿の一種であるハヌマンラングールに「子殺し」行動が見られることを発見したのが始まりで、その後こうした行動が多くの種に見られることが次々と明らかにされました。
 「子殺し」だけでなく、チンパンジーの群れでは、多集団を奇襲して皆殺しにするといった「戦争」まがいの行動まで観察されています。

 上に書いたように、ローレンツの『攻撃』は「名作」としての位置を確立してしまった本ですので、その後の学説の変化にもかかわらず読み続けられ、その内容もそのまま受け入れられ続けるという状態になってしまっています。
 これは、とても困った事態で、例えば『進化と人間行動』(東京大学出版会)という比較的最近の文献の中で、著者の長谷川寿一・長谷川眞理子が、わざわざローレンツに言及してその誤りであることを明言したりしています。

 フロイト、精神分析についても書く必要があるでしょうか。
 精神病の治療についていうと、早い話が「精神分析」にはその実績がまるでないのが事実です。ラカンなどは、まったくナンセンスな式を持ち出したりして「難解」な理論をしゃべくりまくっていましたが、無意味だから理解しようのないだけでした。それを「難解」という言葉で形容して、分からないことを「高尚」と勘違いしていた人々がかしましかった半世紀だったわけです。
 ナンセンスな「理論」で病気が治せるはずもありません。脳内物質が発見されているような現在では、それに対応した向精神薬が開発され、ある程度の――実際の――効果も得られるようになっています。

 ジョン・マネーの『性の署名』は、いま書店の店頭で見ることが出来るのでしょうか。それは確認しておりませんが、上に紹介したようにこの本に準拠した主張が展開されている『セックス神話解体新書』は文庫にまでなって、いわば書店の棚に定位置を占め続けています。また、上に書いたようにその学説は政治的な影響力を維持し続けています。
 『攻撃』もまったく「現役」の本ですし、フロイト―ラカンも同じくいまだに流通し続けています。

 三題噺の完結編です。

 きっかけは、最近読んだ本でした。その中に、精神分析がなぜ・どのようにして合州国で人気を得ていったか、その事情について論じていた箇所がありました。著者は、精神病に対して精神分析は効果がないということをはっきり書いているのですね。
 私も以前からそういう認識でいたのですが、そんな風に明言する人がなかなかいなくて、これまでもどかしい思いをしておりました。
 そこから、ジョン・マネーという精神医学の権威に連想がとび、死んでいる筈の学説がいまだに影響力を持っているというところから、コンラート・ローレンツにも思い及んだのでした。

 (連想はさらに広がっていって、ルワンダの大統領ポール・カガメがジェノサイドの「救済者」であるという風聞にまで至ったのですが、今回はここから先には触れないことにしました)

 さて、どういう感じでか、今回の三題噺は自分のなかでは「介護」や「認知症」に結びついているものと最初から思っていました。どこがどのように、と具体的に考える以前に、そういう直感があったのです。逆に言うと、その直感が妥当なものかどうか、実は最初から明確だったわけでもありません。

 以前、「認知症」と「アルツハイマー病」がどう違うのか、理解していない介護スタッフが少なからずいる事態について書いたことがあります。介護福祉士の資格を持っている人でも変わりがなかったりするのでした。

 「BPSD」って何、というような話になったらどうでしょうか。
 理屈よりも経験だと思っている「ベテラン」スタッフがいるかもしれませんね。
 でも、「問題行動」という言葉を日常的に使用する一方で「BPSD」が何を意味するのか知らなかったら、認知症のお年寄りの介護なんて、本当に出来るでしょうか?

 例えば、ある有料老人ホームの施設長A・K氏は、入居者の行動について「あの人はああいう人なんです」と言っていました。
 こういう理解の仕方しかしていない場合、介護職員が「問題行動」の様々に対してどのように対応すればいいのか、という発想しか出てきません。
 しかし、いわゆる「問題行動」は認知症の「結果」なんですね。もう少し詳しく言うと、認知症の「中核症状」から「問題行動」が導き出されるまでには、その過程がなければなりません。その過程に働きかけるという目的意識が「BPSD」概念を導き出したのですね。そして、その時点から「問題行動」という概念は捨て去られることになります。

 ADLやQOL(IADLというのもありました)に始まり、最近ではPCCとかDCMなんていうのも出てきました。横文字やカタカナばかりで困った話ではあります。でも、それは要するに概念が輸入品であり、それがまだ日本で定着していないからなので、仕方がありません。

 輸入品の横文字がありがたがられているのに疑問を感じる人もいるでしょうか。
 認知症はその発生のメカニズムも解明されておらず、治療法も分かっていません。今、世界中で研究されているまっ最中で、そのケアの方法論も確立されていないわけです。
 そうした状況の中で、新しい「理論」がつぎつぎに提示されているからこそ、介護関連の横文字も増えてしまうのですね。

 新しい「理論」をなめてはいけません。それが出てくるからにはそれなりの理由があったのです。そして、確かに進歩はあると私は思います。
 
 いま、介護の問題というのは、ほとんど認知症の問題だといってもそう大きくは違っていないのが実情でしょう。
 介護の仕事にたずさわるなら、認知症の理解をしっかりと進めていく必要があるのではないでしょうか。それが仕事に対する誠実さというものだと私は思います。

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