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2012年4月29日 - 2012年5月5日

2012年5月 3日 (木)

「基地」は「施設」ではない

(以下の記述における「km2」は、「平方キロメートル」を表わす)

 「基地」は「施設」ではない。

 では、いったい何か。
 ここでは、頭の中でだいたいのところを想像する、イメージを問題にしている。
 「施設」という言葉から、一般に想像される(特に国土のあまり広くない日本に住む我々が描きやすい)イメージは、「基地」の実際には適合しないと言いたいのである。

 「基地」は「施設」ではない。
 それは、軍事に特化した一種の地方公共団体と思った方がいい。

 「普天間基地」と一般に言われているのは「普天間飛行場」というのが正確なようだ。「air station」であって「air base」ではない。
 「普天間」は「飛行場」であって「基地」ではないのである。
 では、その規模はどのくらいか。

 普天間飛行場の面積は、4.8km2。
 この広さは、日本で最小の市である蕨市と同じくらい。ただ、蕨市はいかにも小さい。この市の広さは、イメージとしては「町」といった方がふさわしい。

 「嘉手納飛行場」の広さは、19.95km2。
 宜野湾市が19.5km2なので、それより広い。

 宜野湾市もそう大きくはない。全国787市の中で面積では733位。
 東京の小平市より少し狭いくらいの規模である。

 いろいろ調べていくと不思議な記述によくぶつかる。
 沖縄の総面積が1206km2であるのにたいして、米軍基地はその約19%を占め、23,000haだというのである。なぜ基地の方もkm2で表現しないのか。
 ヘクタールでは、いかにもイメージしにくい。

 換算計算では、1ヘクタール(ha)は0.01km2。
 よって、沖縄の米軍基地は広さとしては230km2。
 大阪市の面積が約223km2なので、沖縄の米軍基地の総面積は大阪市よりもまだ広いわけだ。

 海外では、どうか。
 フィリピンのスービック海軍基地は7000ha、つまり70km2。
 川崎市(市としては中くらいの広さ。順位で431位)の広さが142.7km2なのでその半分の広さの基地だったわけだ。

 近いところでは、599位(69.51km2)の藤沢市といったところか。
(勝手ながら、神奈川県に在住する者として、自分にイメージしやすいところを選んでいる。他には、所沢市・町田市・焼津市あたりが近い)

 クラーク空軍基地の方は、もっと広い。

Clark Air Base was the largest overseas U.S. military base in the world,
with 156,204 acres.

 本体37km2に、居住区など(596km2)をプラスして、全体として総面積633km2である。
 上の引用で「156204エーカー」とされているのを換算すると632km2なので、だいたい一致する。(「1エーカー=4046.8m2=0.0040468km2」である)

 私の居住する横浜市(170位・437.38km2)の約1.5倍の広さだったわけだ。
 自動車で走り回っても、容易には回りきれない。行けども、行けども基地というような規模だ。

 何というムダだろう。

 フィリピンにおける上記の基地は、もう20年も前に返還された。
 韓国でも、米軍基地は縮小されている。

 エクアドルのマンタをご存じだろうか。

 Googleなどを使って「エクアドル/マンタ」で検索すると、格安ホテルとかダイビング・ツアー、4つ星ホテルやホステルとかとか、観光の記事がいっぱい出てくる。(だけ・とは言わない)。
 しかし、もっと重要なことが、日本人の「常識」であってほしい。
 マンタには、1999年から米軍基地が存在したが、それは2009年9月に完全撤去された。この事実は、「普天間」をかかえる日本で、広く共有される必要があるのではないか。

***************************

 日米地位協定(SOFA)をはじめとする基地の問題については、改めて書きたいと思います。
 今回は、「基地」の規模についての話にとどめました。

『生かされて。』について

      Ⅰ

 今回は、『生かされて。』について書きます。

(「ルワンダ虐殺」そのものに興味がある方は、この「Ⅰ」を飛ばして「Ⅱ」をお読みください。書き方はともかく、中身はある文章になっていると思います)

 ルワンダ虐殺の「生存者」イマキュレー・イリバギザによるベストセラーです。
 日本での初版刊行は、2006年10月。私が2007年の年初に読んだときは、既に第7刷になっていました。

 日本語の書名にそう不足があるわけでもありませんが、原題「Left to Tell」からはもっと露骨にその意味が伝わってきますね。生き残ったのは、語り部の役割を果たすための神からの召命だというわけです。

 もしかしたら、著者はカガメ政府の「プロパガンダ担当」かもしれない、という疑惑はなきにしもあらず。
 身を潜めてから2カ月ほど経過したころに、急に英語を勉強し始めるところなど、いかにも都合がよすぎます。
 でも、まあそんなことがあるかも知れないということにしておきましょうか。

 生き残ったのは神の意志なのだという解釈も、それ自体かなり問題です。
 それも、ひとりの女性がPTSDを乗り越えるための必死の思考法だったと考えることもできないわけではない。
 もしかしたら、本当に行っちゃったのかもしれません。

 最近こんな本の存在を知りました。
 同じイリバギザさんによる本です。

 The Boy Who Met Jesus: Segatashya of Kibeho (2011)

 イエス・キリストと会って、いろいろ話をかわしたという少年についての聞き書きです。フィクション、ファンタジーのたぐいではありません。実際にあった(とされている)話です。
 「聞きたいことがあったら、なんでも聞いてごらん。みんな答えてあげるから」
 とイエスから言われて、少年はありとあらゆることを話し合ったのだとか。
 やがて、少年自身がイエス・キリストの教えを広めていきます。

 ふーん、こういう方向なのかな、と思っていたら、これだけではありませんでした。
 前年の2010年に、こんな本も出していました。

 Our Lady of Kibeho: Mary Speaks to the World from the Heart of Africa

 こちらには、イエスに会った人、聖母マリアにあった人が8人登場します。アフリカでのことです。
 マリア様の肌は、白でも黒でもなかったそうです。そうした区別を超越しているために、言葉で形容のしようがない。ただ、光り輝く美しさだったとか。

 マルコムXは、ジーザス・クライストは黒人だったと主張していました。あのチャールトン・ヘストンが主演した『ベンハー』に出てくる、後ろ姿ばかりのキリストは、確か金髪だったような覚えがあります。
 いろいろなヴァージョンがあるものです。

 ちなみに、イリバギザさんは『生かされて。』の続編も出しています。
 『Led By Faith(信仰に導かれて)』副題は「Rising from the Ashes of the Rwandan Genocide」となっています。

 『生かされて。』から始まって4冊全部が「Kindle Edition」でも出ています。つまり、みんな売れ筋の本だというわけです。

 大変な経験をした人が「宗教」に走るのは、ある程度しかたがないとして、それを熱狂的に支持する人たちがやたら大勢いるのは、やはりどこかオカシイ気がします。

 『生かされて。(Left to Tell)』では、「533」の読者レビューのうち、星5つの最高評価が475、星1つの最低評価が5です。

 この数字は、けっこうこわいものがあります。4つ星や3つ星を含まずに、最高評価だけで475です。

 以下のような感じのレビューがたくさん載っています。

Let us join her to help the orphaned children.
Visit orphansofrwanda.org for ways to help.
Thank you, Immaculee, for sharing how God's Love can triumph and transform.
Thank you for your profound book and for being a Grace of God.

(彼女と力を合わせてみんなで孤児たちを救いましょう。どんな助けになれるのか、「ルワンダの孤児たち・サイト」にアクセスしてみてください。ありがとう、イマキュレー。神の愛が勝利し、人を変えていく様をシェアさせてくれて。ありがとう、あなたの深遠な書物に、神の恩寵であるあなたに。)

 書き手は、自分の信仰と善意を確信しきってます。
 なんだか、やたらこわいですね。
 こういう人たちとは、どうやっても絶対に話が通じないような気がします。

 「私は宗教は信じないけど、スピリチュアルな人間なので、とても共感する」――というようなのもありました。ニューエイジ系というやつでしょうか。
 この「スピリチュアル」も、なかなか手ごわいです。

 数十万人が犠牲になる虐殺で、何人かの「生存者」があったとしても、それを奇跡だとは誰も思いません。誰かは生き残るものです。
 しかし、生き残った本人にしてみれば、ほかならない自分が生き残れたということは、ほとんど奇跡としか思えない出来事でしょう。そういう思考の仕方をしてしまうのは、人間の考え方の癖みたいなもので、それほど不自然なことではありません。

 しかし、『生かされて。』の読者にとっては、生き残ったイリバギザさんも、殺されてしまった数十万人もどちらも他人です。
 そんな場合、出来事全体を通じて「神の恩寵」にひたすら感動するばかりというのは、どう見ても不気味な反応と言わざるを得ません。

 ルワンダの虐殺を目の前に据えて、祈ることをポジティヴ・シンキングとして肯定するなんていうのは、どうしたら可能なのだろう、と考えてしまいます。

       Ⅱ

 書き始めたら、この本を取り上げようと思った最初の意図から、ちょっと脱線してしまいました。

 要点をまとめておきます。

○『生かされて。』は、ゴーレヴィッチの『ジェノサイドの丘』と並んで、ルワンダ関連の本の筆頭にある。他の本に比べて流通量が多いので、この本が「ルワンダの虐殺」について書いていることが、多くの人のルワンダ理解を形成してしまう可能性が高い。
 その意味で、内容的に問題のある点については、しっかりと批判しておく必要がある。

○虐殺は、94年の4月に突然はじまったのではない。
 搭乗機爆撃によるハビャリマナ大統領の暗殺も、虐殺のきっかけであって原因ではない。

○この暗殺によって、フツ人によるツチ人の虐殺が始まることは(コソボ空爆)の場合と同様に、RPF(カガメ軍)側があらかじめ想定していたことだった可能性が高い。

○ルワンダの情勢は、94年からではなく90年から捉えるべきである。

○隣国のヴガンダが、90年からルワンダへの侵略を始めた。
 カガメのRPFは、このウガンダ国軍と一体であり、その侵略は米国・イギリス・イスラエルがバックアップしていた。

○つまり、ルワンダ内戦ではなく、隣国からの侵略戦争であった。

○クリントンは、コソボへの対応に追われていたために、ルワンダ情勢を把握していなかったと言っているが、これは明らかにウソである。自国の軍が関わっていたのだから、まったく関知しないことなどあり得ない。

○サマンサ・パワー(!)の本に、HRW(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)のメンバーが、94年4月に、ルワンダについての陳情でクリントンと面会しているという記述があるとのこと。(確認はまだできていない)

○米国が、ルワンダの虐殺を「ジェノサイド」と認めるのを頑強に拒否した事実がある。
 これは、国連軍に入られては、自国軍の作戦行動が妨げられると考えたからであろう。

○カガメが「虐殺をとめた」という神話があり、『生かされて。』もそれを補強している。
 実際は、フツを制圧したカガメの軍が、それ以後は逆にフツの虐殺を始めている。
 また、カガメの軍が侵攻して行くのに従って、フツによる虐殺も増していったという事実がある。

○「Ⅰ」で、イリバギザが英語の勉強を始めたことについて書いたのは、以上のような政治の動きを念頭に置いている。

○ウガンダは英連邦の国である。
 ルワンダは、かつてベルギーの植民地であり、コンゴなどと同様にフランス語の勢力圏にあった。
 カガメは、米国で軍事教育を受けている。
 2009年から、ルワンダも英連邦に加入した。(現在、英語が公用語の一つになっている)

○つまり、ルワンダは「仏語圏」から「英語圏」へ転換しているところである。

○同じツチ人でも、下層にある人たちは「英語」を解さない。これに対して、支配層は英語を話す。言語によって、階層の分化が進んでいるのである。

2012年4月29日 (日)

「花見酒」 の資本主義

 『花見酒』という落語があります。
 万年金欠病の二人組が、花見客に酒を売って儲けようと思いつく。お金がないので、酒屋に話をつけて三升入りの酒樽を調達します。お酒に加えて釣り銭用の五銭硬貨一つ、すべて借り物で、お酒を売ってから自分たちの儲け分を差し引いて返そうという商売です。

 こんな具合いに始まります。
「たまらねえよ、兄貴。ちょいとだけ、飲ましてくれねえかな」
「馬鹿なことを言うな、この酒は商売ものだ」
「そうか、商売ものだから、飲んじゃいけねえてんだ。じゃ、兄貴。俺が買うのなら、売ってくれるだろう」
「お前が買う?」
「俺は五銭玉持っているから、それで買うよ」
「いいだろう。商売だ。だれに売っても同じだ。じゃ、樽を下ろすよ」
「じゃ、俺は客になるぜ。忘れないうちに五銭払うよ」

 この落語、ご存じの方も多々いらっしゃるでしょう。
 「兄貴」の方も酒には目がないわけです。
「辰公俺も飲みたくなったぜ」
「兄貴。駄目だよ。これは商売ものだぜ」
「だから、今度は俺が買うよ。五銭玉を持ってんだから」
「ああ、そうか。兄貴も買うのか。だれに売っても商売だ。じゃ、樽を下ろすよ」
 と続きます。このあと同じパターンが交互に繰り返されるのは予想どおりです。

 キーワードは“商売ものだ”と“だれに売っても商売だ”の二つです。
 結局、花見の場所に行き着く前に二人はお酒をすべて飲んでしまいます。
 お酒は“完売”したわけです。
 すごいな、全部売れちゃったよ。これはかなりの売り上げになったろう。おい、いくらになった?
 と聞く「兄貴」に「辰公」は五銭だと答えます。でも、酒屋には三升の酒とは別に借りた五銭を返さなくてはなりません。完売の売り上げである五銭を返してしまうと、結局すべて合計して売り上げはゼロ銭ということになります。
 おかしいな、どうしてだろう――と二人は不思議がります。“完売”するまでのプロセスに変なところはなかった筈です。二人とも盗み飲みなんてしていません。“商売もの”だからという意識は常にあって、しっかり“売買”を繰り返していたのです。

 落語を聞いている側は、二人のバカさ加減を笑うのですね。
 しかし、私が思うに二人のしていたことに変な部分は一つもありません。
 三升のお酒を二人で借りたというカタチで考えるより、それぞれが一升五合ずつ借りたと解釈すると分かりやすいかもしれません。
 借りたものは返して決済すればいいので、借りたお酒だという点も本質的なことではないと思います。
 二人で、お互いに自分のお酒を売買し合った、と考えましょう。やはり、プロセスに変なところなど一つもなかったと結論できるのではないでしょうか。

 落語の話が長くなりました。
 この文章のテーマは、落語論ではありません。レイシズムと帝国主義です。侵略する資本主義が帝国主義ですから、「レイシズム・帝国主義・資本主義」の話だとしても同じです。

 私のこれから展開する議論は見当はずれかもしれません。
 私の議論が間違っているとお考えの方には、どうか正しいところをしっかりご指摘願いたいと前もって申し上げておきます。

 ただ、ハイレベルの数学を応用した、非常に高度な(高度らしき?)経済学を運用した結果がどんなものかは、皆さんもご存じのことですね。
 回収する見込みの危ういクレジットも「債権」化して運用すれば、儲けが生れるという――コモンセンスが即座に否定するような――話が「理論」として通用してしまう不思議があります。
 少なくとも私の「理論」は、世界経済を破綻させてしまうおそれはありませんから、卑屈にならないで、とにかく話を続けることにします。

 さて、以上のように開きなおった上で断定してしまいますと、「資本主義」というのはネズミ講と同じようなものです。
 先へ先へと「結果」を繰り延べていく限りで成立するもので、本質的には最初から破綻しているのがネズミ講であり「資本主義」です。
 言い換えると「結果」を引き受ける人を――自分以外に――作らないと機能しないのがこの「ネズミ講・資本主義」です。「結果」を受けた人は、また別のひとにそれを渡してしまわないといけません。無限に続かないと破綻するシステムです。

 例えば400円かけて製造したものを1000円で売って、儲かったと喜ぶのが「資本主義」です。
 中身は、こんな具合いです。
 材料が100円、社員の給料が100円、社長の給料が200円。
 しめて400円のものを1000円で販売して600円の儲けを出す、というわけです。

 私はこれは無理だと思うのです。
 600円の儲けが確保できるとしたら、それは上に書いたようなネズミ講的無限連鎖があってこそです。でも「無限」というのはエントロピーの増大する限られた世界の中ではあり得ません。

 なぜ600円の「儲け」に無理があると主張するのか?
 その「儲け」を可能にするべき「商品」を買えるのは誰か、ということがあるからです。

 この1000円の商品を、それを作った社員が買うことはできません。だって、給料が100円なのに1000円のものなど買える筈がないですよね。
 当然、世間にはこの商品を作った会社とは別にたくさんの会社があって、そこの社員もいくらかの給料をもらっています。単純に言うと、そこの社員が買ってくれることを想定してこの1000円の商品は売り出されているわけです。しかし、それで話は丸くおさまるでしょうか。

 資本主義の社会に住んでいる人間たちは、お互いに売ったり買ったりしていて、複雑に関係し合っています。この関係・構造は明確には見えていないものですから、上の会社――1000円の商品を売っている会社は、なんとなくまあたぶん売れるだろうと思って商売している。とりあえずは、営業し続けられているのでしょう。売れなくなったら商品をさらに改良しよう、という程度の意識はあるでしょうか。

 でも、それで済むのでしょうか。
 600円の「儲け」には無理があるという上の話を分かりやすくするために――ある時点における――この世界にあるすべての「材料」「給料」「商品」を合計してみたらどうなるかと考えてみましょう。
(実は「材料」というのも「給料」だと私は思います。道に落ちている石ひとつでも、そのままでは「材料」になりません。「拾う」という人間の行為が必要です。この「拾う」を「採掘する」にしても「栽培する」るしても同じです。まあ、話が終わらなくなるので、とりあえず「材料」の本質が何であるかは棚上げしておきます)

 どう考えても明らかですが、金銭価値で
 「給料」<「商品」ですね。
 「商品」を買ってくれる人が絶対に不足しているという構造があるのです。
 「給料」+「材料」+「儲け」=「商品」
 という式がシステムの構造ですから。

 ここに(棚上げしていた)私の“理論”を適用するとさらに分かりやすいです。
 「材料」=「給料2」
 これを代入すると以下になります。

 「給料」+「給料2」+「儲け」=「商品」

 「商品」と“「給料」+「給料2」”は相変らず釣り合っていません。
 しかし、仮りに上の式から「儲け」をとってしまったらどうでしょう。

 「給料」+「給料2」=「商品」

 となります。
 万歳です。これなら、すべての「商品」が完売可能です。

 「給料」+「儲け」というカタチに固執するのを「資本主義」と言います。
 つまり「資本主義」は、もともと成立しないシステムなんです。
 アラブ社会では、利子というのを取ってはいけないことになっているとか。これは、しっかり把握している情報ではありませんが、事実はともかく、そんな具合いに「儲け」を完全否定する社会というものを想定することができます。そんな社会を「非・資本主義」社会と呼ぶとしたら、これは破綻しません。存続可能な社会です。

 事実として、これまで資本主義の歴史は不況のサイクルを繰り返しています。
 そして、その存続をなんとか可能にしてきたのは、「植民地」という外部があったからにほかなりません。
 「ネズミ講」の無限連鎖を引き受けてくれる「外部」が「植民地」だったわけです。

 私の選挙区の民主党議員が、消費税をあげる必要についていろいろ言っています。
 法人税を上げるのは、企業の「国際的な競争力」をそいでしまうので難しいそうです。既に、日本の消費税は世界的にも高水準にあるとか。

 決まり事としての法人税と、実際に支払われている法人税は違います。
 何億と利益を出している企業が、法人税をまったく払っていない現実を無視して、税率だけ云々するのはナンセンスです。
 が、この話はここでは深入りしないでおきましょう。

 「競争力」ということを本気で考えるなら、日本の人件費を「グローバル・スタンダード」に合わせる必要があるということにならざるを得ません。
 時給80円の国に対して、現状の日本が対抗できるはずがないわけです。
 でも、そういう考え方でいいのか、というのが本当の問題です。
 時給80円にこちらをあわせるのではなく、時給800円(いかにも安いですが)のこちらに向こうをあわせる発想がなくてはならないでしょう。

 お酒が“完売”したのに、なぜ何にも残らなかったのか?
 それは、二人の“商売”がシステムの内部だけで完結していたからだと私は考えます。外部がなかったんです。
 「資本主義」が現実に成立するのは、実は内部と外部を行ったり来たりしているからです。

 それゆえに、“外部”というものに存在してもらわないと困るのが「資本主義」です。

 存在していなかったらどうするか?
 それを存在させてしまえばいいのですね。それを「帝国主義」と言います。

 いうまでもありません。
 外部の人間と、内部の人間である自分たちとを区別するのが「レイシズム」です。

 “です”なんて書きましたが、そう私は考えるわけです。
 世界がずベーと一面化してしまい、“外部”が見つけられなくなったらどうするのか?
 “内部”の中に“外部”を作ればいい――それが現在あちこちで言われている「ワーキング・プア」だろうと私は思います。
 奴隷制は、もちろん内部に設けられた“外部”です。

 グローバリズムとか自由貿易とか、いろいろ取り沙汰されています。
 上に書いてきたような訳で、みんなが儲かるなんてのはある筈がありません。どこかに損をおしつける必要があります。そのための巧言令色が自由貿易のスローガンでしょう。
 自由貿易が「win-win」になるなんて本気で思っている人がいるとしたら、相当のバカです。相手を騙そうとして言っている口先だけのウソだというのなら、まだ理解はできます。当然、そんなものを額面通りに受けとめてはいけませんね。

 以前にコメントの中で書きましたが、「二大政党制」とか「自由貿易」とか「国際競争力」とか、小学生レベルの知的努力でも、フツーに考えさえすれば、その欺瞞性が分かるはずです。
 それを理解しない知的な怠慢、思考停止をなんとかしていかない限り、この先の展望は開かれようがないと私は考えています。

『ゲルニカ』の力

 4月26日はゲルニカの日でした。1937年4月26日に、フランコを支援していたヒトラーがスペインの都市ゲルニカを「空爆」しています。

 前例がまったくないわけではないので、正確には「史上初めての都市無差別空爆」ではないそうです。
 しかし、なんといってもピカソの絵がもった影響力は甚大でした。一般市民の住む都市を戦略目標としたこの戦争行為は、戦争の歴史に新しいページを開くもので、『ゲルニ』がそのインデックスの位置を占めるようになったのです。
 このあとロンドン空襲、ドレスデン空襲へとつながっていきます。大阪や東京を含む日本への空襲もこの流れの上に位置づける必要があるのは、もちろんです。
(攻撃する側の日本としては、ナチスにならって、同じ1937年の8月から南京の空爆を開始しています)

 ピカソの絵が有名なわりには、忘れてはならない原点としてのゲルニカは影が薄いように思われます。「ホロコースト」を論じたアーレントの議論にも、広島や長崎、ドレスデンなどが出てきますが、ゲルニカは出てきません。いわゆる「空襲」を戦争犯罪とする考え方は「時代遅れ」だと言っている人間ですから、驚くにはあたりませんが――。

 確かに被害者の規模では、「ホロコースト」や広島・長崎に比べて、いかにも少ないといわざるを得ません。死傷者は2000人とも1600人とも言われています。死者が300人だったという見積りもあります。

 しかし、ゲルニカへの空襲が当時の人たちにとって衝撃だったことは、事実であり、それを衝撃と感じなくなったのが現在だとしたら、その感性の摩耗をこそ問題にしなければならないのではないかと私は思います。

 チャルマーズ・ジョンソンの『帝国の悲劇』に『ゲルニカ』への言及があります。こちらは、ピカソ自身の制作になるタペスリーの『ゲルニカ』です。
 3枚つくられたというタペスリーの1枚が国連本部にあり、安全保障理事会の入り口前の壁に展示されています。
 ジョンソンによると、米国は2003年1月27日、このタペスリーを青いカーテンで蔽ってしまいます。(インタビューに答えた国連職員は、米国のさしがねであることを否定、たんなる撮影効果のためとか)
 約1週間後の2月5日、パウエル国務長官がここでイラクへの空爆を示唆する記者会見を行っていますから、話の筋は明らかです。『ゲルニカ』の前で「空爆」に言及するのは、いかにも気まずい取り合わせでしょう。
 彼らに自らの行為を恥じ入る感性があったのでしょうか(なんといっても、大嘘を根拠にして攻撃しようとしているのは、彼ら自身100%分かっていたのですから)。
 それとも、単なる「情報戦略」の一環と考えていただけなのでしょうか。

 ピカソ自身が、こんな言葉を残していたそうです。

  絵画は家を飾るためにあるのではない。
  それは敵に対する戦争の防御と攻撃の手段でもある….

 だとしたら、国連での出来事は、まさにピカソの意図がその有効性を失っていないことの証明になっていたわけです。

 ゲルニカ/アウシュヴィッツ――人道に対する罪/ジェノサイド――空爆――人道的介入

 こんな流れで考えていきたいと思っています。
 続きは、また。

P.S.
 忘れていました。
 ブログができて「トラックバック」というやつが可能になったので、この機会に書いておきます。

 藤永さんが私のコメントを転載された記事は、題名が『アメリカにばかり目を奪われてはいけない』になっています。
 コメントの中身にも責任があるのですが、これは必ずしも私の意図とは一致しません。

 米国に注視する必要があるのは勿論のことで、藤永さんのブログの価値も大きくそこにかかっています。とにかく、いま世界を牛耳っている新植民地主義の親分は米国で、ヨーロッパ諸国はパートナーというよりは子分です。これに「目を奪われて」いけない理由はありません。

 私がお伝えしたかったのは、国民性・民族性という方向からの議論にはあまりこだわらない方がいいのではないか、ということでした。

 藤永さんの方では、別にご自身のこだわりもおありでしょうし、これは一読者の単なる願望に過ぎません。これについて教えてください、あれについても教えて――とおんぶにだっこの言い分で、恥ずかしい限りです。お書きになりたいことをご自身のペースでお書きになればいい筈で、それを承知の上での「リクエスト」でありました。

 記事が掲載されたときに、すぐコメントしなかったのは、私の始める話でブログが占められてしまうのはもったいないと思ったからでした。水曜日を楽しみにされている方々からの恨みを買うのもいやですし――。

 アングロサクソン系とラテン系とでは、帝国主義の表現され方に確かに違いはあると思います。また、「ヨーロッパの心」という概念に有効性がないわけでもないでしょう。
 ただ、「参考文献」を見れば明らかなように、藤永さんの議論の小さくない部分が、西欧に由来する思考――資料に依拠されていることも否定できません。
 あまり「ヨーロッパの心」論に拘泥されると自家撞着におちいってしまうおそれがあると思った次第です。

 生意気なことを申し上げましたが、貴重なブログを通じて、いつも教えていただいていることに感謝しております。
 今後ともようろくお願いいたします。

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