フォト
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

リンク

« 2012年5月6日 - 2012年5月12日 | トップページ | 2012年5月20日 - 2012年5月26日 »

2012年5月13日 - 2012年5月19日

2012年5月13日 (日)

「人道的介入」問題とは

 「人道的介入」問題について書きます。

 まず、「人道的介入」とは何か、です。
 これは、単純にこう言うことができます。
 国連が介入しない場合に――安保理の決議がないまま――国家あるいは軍事同盟が「人道的」な理由から、要請されずに他国へ「武力介入」すること。
 一般的には、この介入の是非を問うのが「人道的介入」問題です。

 国連による「武力介入」については、憲章にそれを可能にする規定があり、その規定に従って手続きを進めればいいので、是非を問うまでもありません。

 その詳細に関しては、以下のとおりとなります。

 国連憲章の「第2条の7」が、「国家主権」の尊重とそれに対する不干渉を宣言するとともに、「強制措置」という例外措置を設けています。この「強制措置」によって、国家主権に干渉することが可能になっています。
 「強制措置」を規定する条文は「第7章」におかれています。

第1章 第2条の7
この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託することを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第7章に基く強制措置の適用を妨げるものではない。(太字は筆者)

第7章 第39条
安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。


 虐殺や追放などの「人権に対するはなはだしい侵害」は、上記の「平和に対する脅威、平和の破壊」とみなされることによって、「強制措置」の対象になり得るわけです。
 「強制措置」の内容については、第41・42条が次のように規定しています。

第7章 第41条
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。

第7章 第42条
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

 こんな流れで、国連は「人道的介入」をすることができ、またそれが「武力介入」になることもあり得るのでした。

 繰り返して言うと、通常問題とされる「人道的介入」は上記のような国連による介入ではなく、国や軍事同盟が主体となって行われる「武力介入」を意味します。

 しつこいようですが、以上が問題の核心であり、問題のほとんどすべてだと私は考えています。

 「人道的介入」について、まず言うなら、たいへんご苦労さんな話だということ。

 国連憲章・第7章の他の条文に規定があって、国連が「強制措置」に踏みきる決定を下した場合、国連加盟国は人とおカネを負担しなければいけないことになっています。
 軍隊というのは金食い虫ですから、武力で介入する場合、相当な規模の費用・おカネがかかることになるでしょう。それを、加盟国みんなで負担し合おうというわけです。

 国連の決議によらずに勝手に介入するとしたら、それは「自己責任」ですから、費用は自腹でまかなわなければいけません。たいへんご苦労さんな話だと書いた所以です。

 これを現実に即して言えば、貧乏な国にはとうてい不可能なのが「人道的介入」だということになります。

 それだけでは、ありません。
 次のような事態を想像してみたらどうでしょうか。

 「維新の会」の躍進によって、憲法がついに「改正」された日本という設定です。
 「スーダンを救え」というのは、いまや国際的な世論そのものである。散発的に空爆するばかりの米国には任せておけないと日本の国民は判断します。
 大々的なスーダン空爆を日本は始め、地上軍ももちろん投入する。「アラブ」人の非道な政府を転覆してしまおうというわけです。

 もし、そんなことがあったら、世界はどう思うでしょう。
 それを端的に言えば、こうです。「日本が戦争をおっぱじめた」。

 実は、「人道的介入」の定義として、もう一つ欠かせない点があるのです。
 「国連以外」の主体というだけでは充分ではありません。
 武力行使の主体は「米国またはNATOに限定される」こと、これは必要条件の一つです。ここを無視した議論は、意味がないと思います。

 塩川伸明氏の論文「コソヴォ問題と「人道的介入(干渉)」論」には、「人道的介入」をめぐる数人の議論が紹介されています。

 その内のひとり、篠田英朗の言い分はこんな具合いです。

われわれがなすべきなのは介入を否定することではなく、そのよりよき実行方法についてさらに検討していくことだと思われる
(『平和構築と法の支配――国際平和活動の理論的・機能的分析』創文社、二〇〇三年)

 「われわれ」というのは、いったい誰のことでしょうか。
 「人道的介入」をするのは、米国やNATOです。日本は関係ありません(関係があるとしたら、費用の負担か後方の走り使いくらいでしょうか)。
 私たち日本国民は、ドイツやフランスの国民ではないので、自国政府を通じてNATOの行動を左右することさえできないのです。
 「われわれ」がする検討なんか誰も求めてはいません。

 同じ議論でも、発言する者の立ち位置によって、それが持つ意味が変わってきます。
 日本の知識人は、自分の頭で考える代わりに、海外の文献を読むのを習慣にしてきた結果、非現実的な錯覚に陥っているのではないでしょうか。
 「名誉白人」として、気がつかないうちに自ら欧米人のつもりになってしまっているのではないでしょうか。

 公平に言えば、こんな人もいます。土佐弘之はこう発言しています。

力の大きな不均衡が、介入の前提条件であり、そういう意味では、冷戦後の米国による軍事的な単極支配構造は決定的である。さらに介入正当化の論理ということで言えば、人道主義という利他的な動機に基づいているかのように装った正当化の論理は、比較的受容されやすい『普遍性』を有しており、それがゆえに、二重基準、恣意性といった点を蔽い隠しながら、例外的正戦論を進めることがより容易になるような状況をつくっている。
(『安全保障という逆説』青土社、二〇〇三年)


 「力の大きな不均衡」は、経済力・軍事力だけの問題ではありません。
 イデオロギーにも注目する必要があります。

 『人道的帝国主義』(ジャン・ブリクモン 新評論 2011年)に、こういう記述があります。

P.64
支配関係というのは、最終的には軍事的なものであり、自己正当化のためにかならずイデオロギーを必要とする。

 「人道的介入」のイデオロギー的側面について考えると、まず支配関係の明らかな構造の存在に気がつきます。
 ひとつは「北→南」であり、もう一つは「西→東」です。
 前者としてはリビヤやスーダンが、後者としてはセルビア・コソボが事例になります。
 このベクトルが決して逆方向には作用しないことを見逃してはいけません。

 コソボは、確かにヨーロッパの一部ではあります。しかし、いわゆる「バルカン」なのです。そこでは、西側の先進的な民主主義が実現しておらず、偏狭な民族主義が幅をきかしていることになっています。
 正しい民主主義が機能している西側が、この遅れた東側の国に介入するという構図が「人道的介入」の一つの要件です。

 そうした、NATO・米国の介入について、山崎正和が「人権が国家主権を超える」(「地球を読む」『読売新聞』一九九九年六月二八日)と積極的に肯定していますし、田中明彦もこう書いています。

欧米諸国や日本など先進国の多くの人々にとって、ミロシェビッチ大統領のもとのユーゴスラビア(実態的にいえばセルビア)が、コソボ自治州で行った虐殺行為は容認しがたいものであり、これを止めさせたいというNATO軍の意図は、疑いもなく正しいものであった。(『ワードポリティクス』筑摩書房、二〇〇〇年)

 最上敏樹も『人道的介入』の中で、コソボへの介入を論じています。
 私はその議論を“大学のゼミ「論理学実習」”みたいなものだと感じるのです。

 「コソボではセルビアによる“民族浄化”が行われている」
 「空爆によって、それを止められる可能性がある一方で、コラテラル・ダメージとしての民間人犠牲者が出ることも想定される」

 以上の命題から、「良心的だとの評価を確保でき」「しかも、頭がいいと思われるような結論を導き出しなさい」――そんな議論になっているからです。

 出てくる模範解答を予想するのは簡単です。

 「武力行使は極力避けること。しかし、やむを得ない場合は、武力行使の選択肢をはじめから排除するわけではない」

 こんなものでしょう。

 米国は、「口実」を必要としているのです。どんな途方もない口実であろうと、まったく何にもなしに他国を攻撃することは、事実上出来ません。現在の国際社会は、その程度までには来ているからです。

 その口実を額面どおりに受け取ってどうするのか。
 私には、不思議でなりません。

 藤原帰一の書いているのも同じです。

セルビア系住民のつくった民兵組織が残虐な行動を繰り返したことも、またユーゴスラヴィア連邦のミロシェヴィッチ大統領によってそのような民兵組織に援助が繰り返され、ユーゴスラヴィア国軍が率先して『民族浄化』や虐殺に従事したことも、その当時から明らかだった」
「コソボ紛争についても、NATO軍がユーゴ空爆を敢行することでアルバニア系住民への蛮行を食い止め、ミロシェヴィッチ政権の崩壊も実現できた。正義を度外視した妥協ではなく、正義を掲げる果断な武力行使に訴えたからこそ、大量虐殺も人権蹂躙も辛うじて阻止できたのである
(『平和のリアリズム』岩波書店、二〇〇四年)

 こうした断定はなぜ可能であるのか、要するに何を典拠にして主張しているのか――それが、米国をはじめとする空爆する側の提供する情報なのですから、何をかいわんやです。

 前提が間違っているとしたら、そこからどんな精緻な論理を織り上げても、妥当な結論になどたどり着けるわけがありません。
 少なくとも、議論を始める際に、事実の検証についてどれだけ意識的であったかが、その議論の水準を決定するだろうと言えるはずです。

 空爆の以前に何が起こっていたかついては、以下をを参照することができます。

  Srebrenica Revisited by DIANA JOHNSTONE
  http://www.counterpunch.org/2005/10/12/srebrenica-revisited/

  ユーゴ人道介入の口実「虐殺」デッチ上げ
  http://www.jca.apc.org/~altmedka/yugo-series.html

 セルビアが「民族浄化」を行っていたというのは、完全なでっちあげでした。
 空爆のきっかけになったと言われるラチャク虐殺も、アルバニア側のテロリストによる偽装であることも明らかにされています。

 塩川伸明がこうまとめています。

だが、これらの認識(オコジョ註:セルビアの側に「民族浄化」の意図があったという認識)は、多くの旧ユーゴスラヴィア地域研究者によって、「事実」に即していないことが批判的に指摘されている。ここで詳しく立ち入る余裕はないが、国際政治・国際法研究者の言説と、バルカン地域ないし旧ユーゴスラヴィア地域研究者の言説を読み比べるなら(私は二〇〇四年度の学部・大学院合併演習で、これらを読み比べる作業を行なった)、その間にあるあまりに大きな認識ギャップに驚かされる。

地域研究者の一連の論考をみた上で国際政治・国際法研究者の言説を読むと、あやふやな「事実」認識という砂上に壮大な空中楼閣を築いているのではないかとの疑問を懐かないわけにはいかない。

 『人道的帝国主義』の巻頭に置かれている「緒言」の中で、チョムスキーはこう書いています。

要するに、NATO幹部は、空爆の動機がコソボにおける大規模な残虐行為への対応のためではなく、逆に残虐行為を引き起こすためであることをよく理解していた。

 なぜ、残虐行為を引き起こす必要があったのか。
 さらなる介入を行っていくための口実をつくるためです。セルビアの力を削ぎ、コソボをもぎとることが意図されていたと考えるのが自然でしょう。
 コソボは、実は鉱物資源の宝庫なのです。

 独立したばかりのコンゴから、カタンガを切り取ろうとした植民地主義の歴史そのままではありませんか。

 「Ⅱ」の冒頭で書いた感想への答えがここにあります。
 米国もNATOも「人道」のために無償の行為をしていたわけではなかったのです。

 『人道的介入』の91ページにもこんな記述があります。

ラチャクでの「虐殺」の報を聞いたオルブライトは、これでミロシェヴィッチをたたくための好機が到来したと小躍りしたという。

 別のページに、オルブライトが「コソヴォに春が早く来た」と叫んだともあります。
 虐殺の知らせを聞いて喜ぶのですから、大した神経です。

 コソヴォが一つの実験ケースになったことは確かだと思います。
 その成功に味をしめた勢力が、その後イラクやリビアで同じことを繰り返しています。
 パターンは、同じです。
 「独裁者フセインの圧政」からイラク国民を解放するために、イラクへの武力攻撃が行われました。(そもそもの初めに声高に主張されていたのが「大量破壊兵器」の存在であり、その不在が明らかになると「民主主義」の実現に理由は変わりました。すべて口実ですから、何でもいいわけです)

 私たちが忘れてはならないのは、そうした侵略行為を支持する政府を持ったということです。検証されてもいない「リビア政府による市民虐殺」を平然と報じていたのが自分の国のマスコミだという事実なのです。

« 2012年5月6日 - 2012年5月12日 | トップページ | 2012年5月20日 - 2012年5月26日 »