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2012年6月17日 - 2012年6月23日

2012年6月18日 (月)

「豊かで人間らしい生活」――大飯原発再稼働

 怒り過ぎて口もきけなくなるというのがあります。何を書いていいのかも真っ白になってしまいました。
 そんな失語症の中から、自分の思うところを少しでも表現してみたい、というのが今回のブログです。このままでいたら、心の底まで押しつぶされてしまいそうです。

 なぜあんな男に自分の生き方を指図されなければならないのか――野田イコ総理の再稼働宣言を聞いて、最初にそんな風に感じました。
 この男は記者会見で「豊かで人間らしい」暮らし・生活という言葉を何度も繰り返していました。それを守るための再稼働なのだとか。
 「豊かな」生活とは、どんな生活なのでしょう?
 「人間らしい」生活とは、どんな生活なのでしょう?
 まるで、そんなことに疑問の余地などまったくあり得ないとでもいった口調でした。
 しかし、どんな暮らしが「人間らしい」暮らしなのかは、個々人の価値観の問題です。総理大臣であれ誰であれ、他人から規定されるいわれはありません。

 福島の事故の後、脱原発・反原発の声が広く聞かれるようになった中で、新たに問われているのは、それこそ「生活」のあり方そのものです。
 資源やエネルギーを湯水のように使い、原子力発電では「核廃棄物」という負の遺産を無責任にも次代に押しつけ、それで維持できているのが現在の生活スタイルではないのか。はたして、そんな生活をこれからも続けていっていいのか――それがいま目覚めてきた問題意識です。

 ここのところについての自覚をまったく欠いたまま、現在の社会のあり方をそのまま前提にして、電力の必要性を言い立てているのが、野田首相を初めとする原発推進勢力です。
 まるで押し売りです。電力不足になると言っているその一方で、電力をどんどん使わせようとしています。
 「豊かな生活」のためには、生命すら捨ててかえりみないというのが「再稼働宣言」の論理です。

 通常でしたら「生存」の上位概念が「生活」でしょうから、「生活を守る」は「生命を守る」を含んでいる筈です。しかし、記者会見では、国民の「生活」を守るとは言っても、「生命」を守るとは断言しませんでした。これは、あまりにもヒドイです。

 さすがに、見え見えのウソはつけなかったのか。国民の生命を守るとは、とても大見得きって言えなかったのでした。その代わりに持ち出してきたのが「豊かで人間らしい生活」なのですから、こんなに腹立たしい話は近ごろ聞いたことがありません。
 よけいなお世話です。あんたから「豊かな生活」がどうこう言われる筋合なんかない。そう言って、生卵かクリームパイでもぶつけてやりたくなります。

 原発を動かさないままに「電力不足」の事態に陥ったら――生命維持装置が停電で機能しなくなるというようなことを言いたいのでしょうが――生命が失われる危険性すらあるとこの野田イコは言っていました。
 随分と悪辣な言い分です。これは、ヤクザのおどしと同じではありませんか。

 招来の可能性以前に、福島の原発事故でいったいどれだけのいのちが失われたのか、この男はしっかり把握しているのでしょうか?

 報道されているだけでも、多くの生命が犠牲になりました。
 放射能汚染から、将来を悲観して自殺した方がいます。
 取り沙汰されたところでは、福島県大熊町の双葉病院で逃げ遅れた患者10人が死亡し、その後も28人が転院先などで亡くなっています。

 その性質上どうしても過小な数字になりますが、公式に認定された、福島第一原発の事故による「災害関連死亡者」は573人にもなります。これは、今年の2月4日に新聞各紙に発表されています。
 既に病気で亡くなる方が出始めていますから、こんな数字を遙かに凌駕する大量の犠牲者が出ているのが福島の事故なのです。

 もちろん、生活自体を根こそぎ奪われた数知れない犠牲についてもなおざりにはできません。

 野田イコ首相は、事故を起こさない体制を整えたと――何を根拠にしてのたまわったのか全然わからないのですが――言っていました。
 何にも変えていないのに、なぜそんなことが言えるのか?

 事故は絶対に起きないという例の「安全神話」が無傷で復活です。1年以上の間、何を見て来たのか、不思議でなりません。
 事故が起きないのだから、このさき責任を問われることもあり得ないと思いたいのでしょうか。

 福島第一原発のような事故については、そもそも責任の取りようなどないというところから、話を始めなければいけないのだということが、この男には分からないようです。本当に、信じられないほどの想像力の欠如です。

 例えば、原発の事故が原因になって私の息子が死亡したとしましょう。
 これに対して、どう責任を取るというのか?
 黄泉の国から連れ戻してくれるというのか?
 そんなことは、総理だろうが何だろうが、ただの人間に出来るはずがありません。

 では、国民の目の前で腹でも切ってみせるというのか?
 死んでお詫びするという覚悟を、ほんの微量でもこの男は持っているのか?
 しかし、こんな男の生死なんかどうでもいいですが、この男が腹を切ったからといって、死者がよみがえるわけではありません。

 実際にこれだけの事故が起きても、東京電力、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、経産省等々の誰ひとりとして「責任」をとっていないのです。
 12年前、蒸気乾燥機のひび割れを隠蔽した件から、東京電力では会長・社長を含むトップ4人が退陣させられました。現在の総無責任対応からすると信じられないような話に思えてしまうのは、今現在のとてつもなく異常な状況に、多少とでも慣れてしまったからでしょうか。

 何かあったら私が責任をとりますということすら言っていないのが事実ではあります。どういう頭の構造をしているのか分からない、この野田イコは、「決断」を下したのが「責任」なんだと思っているようです。
 メチャクチャの支離滅裂と言うしかありません。

 電力不足になったら、企業が海外に逃げてしまうのだとか――。
 どうぞどうぞ、出ていきたい会社はどんどん勝手に出ていってくださいな。
 1億2千万が「国内」であるような市場が、そんなに簡単に見つかるものでしたら、どうぞお行きなさい。

 実際は、東証一部上場の企業についても、今おおいに儲かっている会社の7割は「内需」に依存しているのが事実ではありませんか。
 日本が、史上最長の「好景気」を記録していたらしいのは、つい最近のことだったはずです。国民の大多数は、まったく実感を持てませんでした。
 大企業が儲かれば、そのおこぼれを頂戴して下々まで潤うという、いわゆる「トリクルダウン」説が嘘っぱちだというのは、既に確定済みではないのでしょうか。
 社員の給料をコストとしか見なせないような企業は、私たちには本当は必要ないのです。
 ついでながら、スウェット・ショップの存在の上に成り立っている企業も、日本には必要ありません。みんな出ていってもらえばいいのです。

 原発をなくしたら電気料金が高くなるという話も大いにマユツバものだと私は思います。原発を多少とでも今より安全なものにしようとしたら、莫大な投資が必要になります。電気事業法という法律がありますから、電力会社が投資すればするだけ“自動的に”電気料金は上がっていきます。
 アーニー・ガンダーセン氏も「安全な原子力」と「安価な原子力」は両立しないと言っています。
(当然ながら、原発を止めても電気料金は上がるでしょう。しかし、それは現状の独占体制がいつまでも維持されるのを前提にしての話です。クレバーで合理的な電力供給のあり方を構築することで、安価な電力を実現することは可能です。「もんじゅ」などに無駄なおカネを費やす代わりに、そういった方向にどんどん投資していけば、未来はまだまだ明かるいはずです)

 東京電力は、このまま逃げ切るつもりでいるようですが、どこが負担するにしろ、これまでウン十年かけて原発で儲けてきた分など、すべて吹っ飛んでしまっているのです。
 それでもなお原発を続けようというのは、事故補償なんかまったくする気がないからに違いありません。国民をなめきっているわけです。

 福島県の1324人の方たちが、東電の刑事責任を問うべく立ち上がりました。これは、できるかぎり応援していきたいと私は思っています。
 このまま東電を逃げ切らせてしまえば、われわれが未来永劫なめられ続けるのが確定してしまうからです。

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