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2012年9月9日 - 2012年9月15日

2012年9月13日 (木)

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

 つぎのブログ記事をダシにさせてもらいながら、いわゆる「ダレスの恫喝」(当時の報道では「ダレス警告」)の周辺を検討してみたいと思います。

深沢明人氏
松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

 主旨は、大筋でそのとおりだと思います。ほぼ妥結していた話をダレスがつぶしたという説明では事実と相異します。
 ネットであちこち検索しましたが、ブログ記事に指摘のあった田中宇・大前研一氏etc.の記述と同様のものばかりで、この深沢氏の主張は例外に属するようです。なんといったらいいのか、稀少価値のある記事と言えます。

 以下に引用する池田香代子氏の記述は、時間の前後関係に矛盾があります。
 日ソ共同宣言の調印は1956年10月19日、対する「ダレスの恫喝」は1956年8月19日です。

池田香代子氏
「四島返還論」というアメリカの罠

>>1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条
>>約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、
>>日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領
>>土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ
>>連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も
>>認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫
>>喝」です。

 松本俊一氏の『モスクワにかける虹』は私も読みました。居住する市の図書館に所蔵されている昭和41年刊行の旧版です。
 本文に先だって、つぎような献呈の辞が載っています。

 「謹んで本書を今はなき
    鳩山一郎先生の霊に捧ぐ    松本俊一」

 ダレス・重光会談の経緯については、一九九九年出版の朝日選書『北方領土問題』(和田春樹)252頁~254頁にも、最低限のことは書かれています。和田氏の記述は、松本氏の著書も参照したものです。
 和田氏は、さらに踏み込んで、ダレスの恫喝が『産経新聞』の特種になったのは、松本俊一全権のリークによるものだと書いています。

『北方領土問題』 P.254
>>ダレスの威嚇は松本によって随行記者の久保田正明にリークされ、二三日付け
>>の『産経新聞』で特種として報じられた。つくりだされた印象はものすごかっ
>>た。この反応は米国政府を憂慮させた。

 2001年に亡くなられた久保田正明氏は、同書が出版された1999年にはまだご尊命ですから、はっきりと名前まで明らかにして書かれた上記記述の信憑性は高いでしょう。
 久保田氏は交渉の経緯に題材をとった『クリムリンへの使節』(文藝春秋、1983年2月)を著わしていますが、そこにリークについての記述はありません。「訓令第一六号」についての「聞き取り」と同様に、和田氏は久保田氏から直接話を聞いたのだと思います。

 そんな次第で、複数の資料が明らかにするところでは、重光葵全権が行なった「第一次モスクワ交渉」が妥結に至らなかったのは、ダレスが恫喝したからではなく、東京の政府からソ連案を呑んではいけないという訓令があったからでした。
 日本政府のそれまでの方針であった「二島返還論」をダレスの恫喝がつぶしたという通説(?)は間違いです。

 しかし、次のような箇所になると、私はちょっと違うと思います。

深沢氏
>> 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返
>>還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張
>>している。
>> 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否
>>された。それだけのことだ。
>> ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認め
>>ないぞ」という発言などどこにも出てこない

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。
 また、池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。

深沢氏の引用(『モスクワにかける虹』P.117より)
>>このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国
>>務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。

 深沢氏は、上記のような引用をしています。
 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。

 深沢氏のブログ記事に私が同意するのは、ダレスの鶴の一声ですべてが吹っ飛んだわけではなかったということです。
 どういう立場をとるにせよ、事実についてあまりにも無頓着な議論がまかりとおっている異常さは看過できないという点で、私は深沢氏のブログ記事に同感するものです。

 ついでですから、簡単に自分の立場を書いておきましょう。
 私自身は「四島返還論」は交渉の妥結を不可能にする「ため」に主張されていた(いる)ものと考えています。「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たちが、国の内と外の双方にいると考えます。

 ネットで読んだところによれば、佐藤優氏はそのあたりについて、さらに極端なことを言っています。「四島返還論」の論としての正当性はともかくとして、それがソ連との間に友好関係を築くのを防いだというメリットは確かにあった、とのこと。

 これは、とんでもない主張だと私は思います。
 この論理をもう少し先に進めれば、日ソの国交回復自体を否定していた吉田茂の方針に至ります。日本にソ連の大使館を置くのを防ぐためになら、国が抑留者を見捨ててもいいという考え方には、私はとても同意できません。

 私が考える「一番ありえた解決」は、こんな感じです。
1.日本は、歯舞・色丹の領有権を主張して、約束どおりこの二島の返還を受ける。
  ソ連は、出血サービスの「好意」として、歯舞・色丹を返還するのだと言っていましたが、理由付けについては、なんとでも折り合えるだろうと思います。
2.日本は択捉・国後に対するソ連の領有権を承認する。
  相手のメンツを立てるのも大事なことです。
3.その上で、アラスカの例もあるように、日本は択捉・国後の二島をソ連より「購入」する。
  非軍事化の条件がつけられた場合は呑んでもいい。
  二島の「購入」がどうしても難しいときは、国後だけでも妥協する。
  しかし、少なくとも国後は決着させる。
 (岩下明裕氏の「フィフティ・フィフティ」論の影響下にあることを否定はしません)

 これをバブルの時にでも、まとめられればよかったのにと私は思います。
 ロックフェラー・ビルなんかじゃなくて、二島を買えばよかったのに……と。

 この案は現在でも有効です。
 日本は、ロシアがびっくりするような価格を提示すればいいと思います。
 ただし、購入には米国の国債をあてるという条件だけは絶対のものにして――。

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