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2012年9月16日 - 2012年9月22日

2012年9月22日 (土)

夏季限定の「原発稼働・容認」はどうなったの?

 どうもよく分かりません。
 夏季限定で容認されていたはずの「大飯原発再稼働」の話はどうなっているのでしょう。

 こんなタイトルのニュースがあります。

大飯原発の安全性再審査を 関西広域連合、国に申し入れ
2012.9.7 20:53

 その内容はこんなもの。

 関西広域連合(連合長、井戸敏三兵庫県知事)は7日、今夏の節電要請期間終了を受け、7月に再稼働した関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の安全性を再審査するよう求める申し入れ書を政府に提出した。

 節電期間が終わったら「安全性の再審査」を求める? そんな話でしたっけ?
 夏の間だけは認めるから、期間が終わったらまたストップしろ、と言っていたのではないんでしょうか。

 マスコミは重度の健忘症なのか?
 国民をニワトリなみの記憶力しかないとナメているのか?

 私はどうも世の中の動きにうとい人間なので、どこかで聞き漏らしていることがあるのでしょうか。
 でも、私と同じ程度か、もしかしたらもっとウカツなのもいます。
 新聞社です。

 こんなタイトルのニュースが見つかりました。
 2012年9月4日『東京新聞』の夕刊です。

大飯原発 大阪府市が停止要求 緊急声明

 こちらの中身は、以下のようなもの。

 大阪府と大阪市は四日、エネルギー戦略会議を開き、今夏の節電要請期間が七日に終わるのに先立ち、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の停止を政府と関電に求める緊急声明をまとめた。電力需給には余裕があり、多くの国民は原発ゼロを目指しているとして、節電期間終了後の停止を要請している。   

 私以上にアホです。
 「大阪府と大阪市」が要求したと報道しています。
 実は、要求した主体は「大阪府市」ではなくて「大阪府市エネルギー戦略会議」なのでした。ややこしい話ですが、後者は「大阪府市」ではないばかりでなく、その諮問機関ですらないようです。

 この「大阪府市エネルギー戦略会議」が9月4日に第20回の会議を開いて、その結論の一つとして上のような「停止要求」を出したのは事実。
 しかし、大阪府市はこの会議は“違法の疑い”があると唐突に言い出して、中止することにしてしまいました。

 “疑い”については、既に今年の5月から分かっていたのだそうです。その時に手を打っておけば、今ごろは何の問題もなくなっていたでしょうに。
 そんな会議を20回も開かせておいて、今ごろになって“違法の疑い”ありですから、こんな失礼な話はありません。

 橋下市長が、会議の「緊急声明」の内容に、またまた「びびった」のか。
 
 「エネルギー戦略会議」は、9月17日に次の会合をもっています。
 大阪府市が一切の援助を拒否しているので、今度は手弁当で集まりました。

 ところが、この会議の様子が、ネット上でなかなか出てきません。
 一つだけ(変な表現になりますが)音声だけの動画が見つかりましたが、まるで報道の自主規制があるかのように、9月4日以降は一貫して無視されていようです。

 おかしいですね。
 橋下市長が「エネルギー戦略会議」を切り捨てた、という出来事が広く報じられず、論評もされていない。

 私からすれば、維新の会からどんどんメッキが剥がれ始めているというだけのことで、何の予想外も不思議もありませんが、報道がないのはオカシイです。
 維新の会はいまや国政に参加しようとしている政党ですから、その団体を判断するための材料は、マスコミはしっかり届けるべきです。これまで、さんざん持ち上げてきたのは、知るだけの意味があると言っていたのと同じはずです。

 「エネルギー戦略会議」の面々も、もう頭に「大阪府市」を付ける必然性がなくなりましたね。メンバーの多くがわざわざ東京から(横山ノック氏を当選させている、日本の一地域まで)出かけていたことの意味をいきなり全否定されてしまった訳ですし。

 しかしまた、理屈はともかくとして、正直なところ「エネルギー戦略会議」メムバーの発言は、橋下市長に関するかぎりメチャクチャ歯切れが悪いと私は感じます。

 もう大昔になりますか。山口県の知事選のときから、そんな印象を私は持っています。
 維新の会の「脱原発依存」というスローガンが、もしも本ものであったのなら、飯田哲也さんはまさに理念を同じくする「同志」であったはず。応援に行かない道理なんかありません。

 別に先見の明とやらを誇る気持ちなど毛頭ありません。ごくごく当たり前の感想なのではないか、私と同じように感じた人はいくらでもいたのではないかと思うのですが、見当違いでしょうか。

2012年9月21日 (金)

「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?

 “正解”とは大きく出たものだと思われてしまうかもしれません。
 まあ、大言壮語でないこともない。それは認めます。
 というより、分かっていて、一種の挑発として出しました。
 外務省のデマゴギーを筆頭にして「北方領土」問題の議論には明らかな虚偽が多すぎます。
 私の議論には、誤りはあるかもしれませんが、意図されたウソはありません。陋劣な理屈にはつくづく愛想が尽きているので、あえて大言壮語してみた次第です。

 日本は「サンフランシスコ講和」で南樺太も千島列島も放棄しました。この点に何の曖昧さもありません。ここを出発点にして考える以外に、まともな論理なんて出てきようがない、というのが私の主張です。

 これは私の独断ではなくて、「北方領土」返還論のそもそもの基本線でした。国際的に、つまり外交上通用しうる理屈としては、これ以外はあり得ないからです。
(その後、従来の主張を維持できなくなった外務省が、この基本線を曖昧にするようになります。「日本固有の領土」ということを強調し始めた理由です。このために「北方領土」問題がさらに分かりにくい、グチャグチャしたものになってしまいました)

 日本はこれまでずっと一貫して、千島列島を放棄したこと(面倒なので今後いちいち南樺太にはふれません)自体は否定していません。
 「千島列島は確かに放棄したが、その中に○○は含まれない」という構成の議論をしていたのです。
 この「○○」が当初は「歯舞・色丹」だったのが、その後「南千島」も該当すると言うようになり、「南千島」という言葉自体が主張と矛盾するので、無理矢理「北方四島→北方領土」という新語をでっち上げたのが、歴史が語る経緯です。

岩下明裕『北方領土問題』(中公新書 2005年)P.204
六四年六月、外務次官通達は、それまで択捉、国後を指していた南千島という呼称を使わず、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使うように指示を出す。これを受けて、根室市で「北方領土」の呼称で返還運動が始められたのが、六五年である。政府の管轄下で北方領土問題対策協会が組織されたのは、六九年。全国四七都道府県に返還運動の推進団体「県民会議」が結成され始めるのが、七〇年(北海道以外で第一号は七〇年の宮城県、最後は八七年の島根県)。

 「指示を出す」です。無理矢理の言論統制ですね。

 サンフランシスコ講和の演説で吉田茂は、南千島と北千島という言葉を複数回使用していますし、1955年以前の国会でも、なんども「南千島」なる地名が飛び交っていた事実があります。
(ちなみに『回想十年』の中の吉田の記述、将来を見越して「択捉・国後」への領有権を担保しておいた旨の記述は虚偽であることが、公開された外交文書によって既に証明されています)
 当時は、「四島返還論」のための無理な理屈づけなど誰の念頭にもなかったので、当たり前のことを当たり前に言っていた結果です。

 その当たり前の言葉を使ってしまっては成立しないのが「四島返還論」だということをこの際、銘記ください。

 ここまでの話から、
「北方領土」返還論の帰趨が「千島列島の範囲」をどう捉えるかにかかっている、ということが明確になったと思います。
 具体的に言うなら、
「択捉・国後」は日本が放棄した「千島列島」に含まれるのか、含まれないのか?
これが、問題の核心です。
 他のあれこれは、何ら本質的な問題ではありません。「固有の領土」がどうこうというのも単なる心情論です。現在に対置された過去へのノスタルジーが、外交交渉の根拠になるはずもないでしょう。

 そういうわけで、本来これ以外の議論は面倒なだけでいちいち検討するには値しないのですが、上に述べたように、意図的に問題をグチャグチャにし始めた外務省の思惑などもあります。その辺をクリアするために、もう一つだけ触れておきます。

 日本には「千島列島」に対する領有権はない、と書きました。
 では、ソ連はどうなのか、です。

 ソ連(または、それを継承するロシア)に千島列島の領有権があるかどうかというと、それは法的には確立していません。

 その理由をごく単純に言うと、
日本の千島列島放棄を規定したサンフランシスコ講和条約には、それがソ連に帰属するとは書かれていないからです。
 また、会議には出席したものの、ソ連は講和条約に署名しませんでした。

 この事情が「北方領土」問題を込み入った、たいへん面倒なものにしています。
 しかし、ことがら自体は実はまったく単純だというのが私の考えです。

 歴史の推移をたどってみましょう。
 サンフランシスコ講和で、日本は千島列島を放棄しました。
 これは、ポツダム宣言の7項目のうちの一つに基づいています。

ポツダム宣言
「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」

 上にいう「吾等」は連合国ですね。
 ポツダム宣言を受諾することで降伏した日本は、6年後その条項を基礎にして講和・独立します。
 その講和にあたって、「吾等」はポツダム宣言にあった「諸小島に局限」の部分を具体的に決定しました。千島列島が日本のものではないというのは、その決定内容の一つです。

 日本の領土でなくなった千島列島は、どこに帰属することになるのか――それは「吾等」の中での話であって、日本は関係ありません。
 だから、あとになってソ連に対して、その千島列島の一部を返還要求するなどという理屈はなり立たないのです。

 込み入った事態の本質は、実は単純なのだと書きました。
 日本の損得からちょっと距離を置いて、歴史の推移を素直にたどってみれば、答えはすぐに出てきます。

 米国がソ連に二枚舌外交をした、約束をやぶったというのがその単純な本質です。
 我々の日常生活でも同じですね。約束やぶりとか、そういうことがあると、あとでやたら面倒くさい事態になるものです。

 米国は、南樺太や千島列島の領有をソ連に約束することで、参戦を求めました。
 ソ連は、それを諒解して日本に侵攻し、結果として歯舞・色丹までの占領を実現したのでした。一時は北海道を半分よこせという要求まで出しましたが、それはないだろうと言われて諦めています。

 つまり、日本が現在まで問題にしている「北方領土」のソ連による占領は、米国とソ連の合作であるわけです。

 事実は確定したのですから、残るのは文書によってその占領を法的にも裏づけることだけです。それを実現するためのチャンスが講和会議のはずだったのです。
 しかし、実際は、米国はソ連に約束したような証文を出すのを拒否しました。これは、当然のことですが、日本への思いやりから出た行動などではなくて、米国の世界戦略の一環としての選択にもとづいていたのでした。

 というわけで、事実と法的裏づけが一致しない事態になってしまった――それが「北方領土」問題の本質です。

 米国は、最初のうちこそ“ソ連との信義があるから、はっきりとは言えない”などと曖昧なことを言っていましたが、だんだん露骨になって、しまいには、択捉も国後も日本のものだと明言するようになりました。
(外務省が『われらの北方領土』の中で、得意になって指摘しています。1954年に起きた、北海道沖での米軍機撃墜事件について、米国はソ連に抗議文書を送っているのですが、これがなんと1957年のことです。ソ連にケンカをふっかけて、「北方領土」の帰属を問題にするのに、なんと3年前の話を持ち出してきたのでした。これは、逆に外務省の論拠の薄弱をさらけ出しています)

 つまり、ソ連の占領という事実に法的裏づけを与える意思など、もうカケラもないのですね。
 しかし、いったい米国はソ連の占領を“承認”しているのか、いないのか?

 米国は、外野から火に油を注ぐようなことを言っていながら、この占領自体について何のアクションもとろうとしません。
 これは、言い換えると、その事実を――どんな事情からであろうと――そのまま受け入れているわけです。つまり、事実として“米国はソ連の「北方領土」占領を承認している”のです。ヤルタにおける、もともとのコトの始まりどおりにです。

 ソ連は一貫してその領有権を主張し続けている。
 米国も事実としてソ連の領有権を承認している。
 日本の領有権などどこも支持していない、というのが世界の状況だということです。

 誰も認めていない領有権をこの先いつまでも主張し続けても、求める結果など出るはずがないと私は考えます。

 長くなりましたので、続きは別記事にします。

「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲

 論点に戻ります。
 「北方領土」問題の核心についてです。

 千島列島の範囲については、過去、和田春樹と伊藤憲一の間に論争がありました。

1 和田春樹
 『世界』1986年12月号「『北方領土』問題についての考察」
2 伊藤憲一(青山学院大学教授)
 『諸君』1987年2月号「北方領土『二島返還論』を疑う」
3 和田春樹
 『世界』1987年5月号「千島列島の範囲について」

 このころ、それまでの「四島返還論」に対する異論が、いくつか重ねて出始めていました。和田春樹以外に、中島嶺雄、大前研一、司馬遼太郎の諸氏が持論を展開しています。

 上に掲げた両氏について言うと、まず(特に伊藤を意識したわけではない)1が発表され、それに対する批判として2が出された。2への反論が3という流れです。

 伊藤は、こう書いています。

『諸君』1987年2月号 30~31頁
和田さんは国際法をご存じないようで、日露両国の国内の文書を得とくとして引用なさっておられますが、領土問題については、じつは国内的な文書は引用価値はないのです。あくまでも引用根拠たりうるのは、国際間の文書、それも直接当事国間の合意文だけです。

 上記に続けて、伊藤は自らの「四島返還論」――つまり、択捉・国後が千島列島には含まれないという主張――の根拠をつぎのように説明しています。

同書 31頁
その意味では、日露間では一八七五年の樺太千島交換条約が決定的な重要性をもってくるのです。そして同条約が千島列島をどのように定義していたかといいますと、同条約の第二条は「『クリル群島』即ち第一『シュムシュ』島第二『アライド』島――中略――第十七『チェルポイ』並ニ『ブラット、チェルポエフ』島第十八『ウルップ』島共計十八島」と「クリル群島」の範囲を十八島に限る旨を、日露間の正式な合意として明確に定義しています。念のため、一八五五年の日露通好条約の定義もみてみますと、同条約の第二条は「『ウルップ』全島夫より北の方『クリル諸島』」となっており、これまた明快に「クリル」諸島とは「ウルップ以北」なんだ」ということについて、日露間で合意しております。

 長い引用になりましたが、伊藤による上の主張は実は「政府見解」と同じなんですね。
 外務省が採用した理論武装をそのままなぞっていたのでした。

 前年の国会質疑を見ると、なんだか不思議な気持ちもします。
 伊藤は、公衆の面前で“論破”されるべく登場した感があります。しかし、その辺の事情は後日までの課題としておきましょう。

 伊藤の批判に対して、和田春樹は『世界』1987年5月号で反論しています。この文章は、後になって『北方領土問題を考える』(岩波書店 1990)に、前書をつけて収録されましたので、雑誌のバックナンバーを参照するまでもなく、読むことができます。

 和田の反論の趣旨は以下のようなものです。

  • 「当事国間の合意文書」としての条約において、議論の根拠にできるのはその「正文」である
  • 伊藤が挙げた「樺太千島交換条約」においては正文はフランス語とされている。よって、このフランス語条文にどう書かれているのかを問わなければならない
  • 伊藤が典拠としているのは、日本語の「訳文」に過ぎない
  • このフランス語「正文」においても、ロシア語「訳文」においても、伊藤が引用する部分は、日本語「訳文」とは異っている
  • 「正文」においても、ロシア語「訳文」においても、十八の島は「クリル列島」のうちの“ロシアが領有していた部分”として列挙されている
  • つまり、日本語「訳文」は誤訳であり、誤訳にもとづいては、外交交渉はできない

 「樺太千島交換条約」については、こういうことを言う人もいます。

 この条約は、いわゆる「北千島」と樺太を交換した条約で、もともと日本の領土であった択捉以南の島はその対象になっていない。「樺太」と「北千島」との交換を名づけて、「樺太千島交換」と称しているのだから、「北千島=千島」だと言える。

 これは、単純に間違っています。
 条約には実はタイトルはなくて「樺太千島交換条約」というのは、日本における通称に過ぎないのでした。
 この条約は日本が「損をした」と受けとめられる可能性もあったので、そこを乗りきるために意図的にそうした通称を広めたのが事実のようです。後の「日比谷焼き討ち事件」のような騒ぎが起こるのを防ぐために、千島全島と樺太との交換だったような錯覚を期待したのですね。

 「日露通好条約」についても、和田は伊藤の説明を否定しました。
 これも日本文に間違いがあることが明白で、それを典拠にはできないのです。そもそも伊藤の引用した文では、クリル諸島以外にウルップ島があり、また択捉・国後があることになってしまいます。
 和田の反論は精緻をきわめたものなので、引用しても要約してもやたら長くなりそうなので、詳細はリンク先のホームページを参照していただくことにします。

北方領土問題 5.国後・択捉は千島? クリルアイランズ?

 和田春樹の反論「千島列島の範囲について」に対して、伊藤憲一は何ら有効な再反論ができず、その後まったく沈黙してしまいました。

 また、外務省が出している『われらが北方領土』においても、この論争の後、日露通好条約第二条への言及が削除されるなど、条約を根拠とする主張がトーンダウンしています。

 最新版の記述を引用してみましょう。

『われらが北方領土』2011年版 6-7頁
また、一八七五年には、我が国は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに
対して樺太全島を放棄することに決定し、ロシアと樺太千島交換条約を結びました。この
条約の第二条には、日本がロシアから譲り受ける島としてシュムシュ島からウルップ島ま
での十八の島々の名を列挙しています。

 記述の論理の欺瞞性は明らかです。
 「我が国は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに」というのは、明治政府と同じ嘘っぱちになっているところが面白い。譲り受けたのは「北千島」です。「千島列島」ではありません。
 「北千島」を勝手に「千島列島」と言い換えてしまい、「第二条」で列挙されている18の島が「千島列島」の具体的な中身だと言うのです。

 ソ連に日本の主張を伝えるために送った文書の中では、上記の二つの条約は、わざわざ日本語「訳文」をロシア語に翻訳したものを使用したそうです。
 そんなことをしなくても、向こうにはフランス語やオランダ語の条文と一緒にロシア語の条約文があるのですから、外務省はいったい何をやっていたのか。
 日本語訳文のそのまた訳文を使わなくては、成立しないような主張をしているということなのです。

 ここまで書いてきて、本質的な議論で肝心なところはだいたいお話しできたかと思います。あと少し、いくつか気になっているところを指摘して終わりにしましょう。

 「北方領土」問題が、ここまで長引いているのは、米国の思惑もさることながら、官僚の頑迷固陋が作用していると私は考えます。

 そのひとつとして――
 北方領土返還運動は、税金で賄われています。北方領土問題対策協会は独立行政法人です。最近ハヤリの言葉を使えば「シロアリ」の一種です。北方にも生息できる種類のしぶといシロアリなのでしょう。
 このシロアリとその周辺に巣食うグループが、国民の利益など見向きもせずに、自らの利権維持に努めていることが、問題をこじらせています。

 旧島民の方たちが、必ずしも「四島返還」を支持しているわけでもありません。
 最近は二島先行返還を許容する人が増えています(『読売新聞』二〇〇一年五月八日)。

岩下明裕『北方領土問題』P.224
 日本経済新聞が二〇〇〇年九月に実施した調査によれば、二島のみの早期返還を望むものが三四パーセントとなり、四島返還の三二・一パーセントを二ポイント上回った(『日本経済新聞』二〇〇〇年九月二十一日)。加えて、二六パーセントが日本は「領土問題」
に固執すべきではないと答えている。

 インターネットをとおして、限られた範囲でしょうが、国民の意識をかいま見ることもできます。

ネット世論調査

断固、四島返還  56.48%
現実的に二島返還 37.26%
現状のままがよい  3.13%
わからない     3.13%

 外務省による執拗な“洗脳”工作があるにも関わらず、これだけの数字が出ているわけです。

 「北方領土問題」について、比較的若い研究者が発言をし始めています。
 岩下明裕の『北方領土問題』(中公新書 2005年)があります。
 岩下は、この本で第6回大佛次郎論壇賞を授賞しています。本の副題は「4でも0でも、2でもなく」とあります。
 この人は、現在「北海道大学スラブ研究センター教授」ですから、人脈としてはいちおう和田春樹の論敵で4島返還論を主張する木村汎の後継ですが、「千島列島の範囲」については、和田の主張が明らかに正しいと言っているそうです。

 親米右翼というのがインチキだとは、よく言われます。
 「カイロ宣言」やら「大西洋憲章」の「領土不拡大」の原則を持ち出して、ソ連の「北方領土」占領を非難する人たちがいますが、私は大きな違和感を覚えます。
 「領土的たるとその他を問わず、いかなる拡大も求めない」というのが大西洋憲章です。

 戦争前と比べて戦後にはどうなっていたか、の問題ですね。
 戦前、日本に米国の基地なんかありましたか。米軍の基地は、実質的に日本の中の米国領土です。仮りに領土そのものでないとしても、上の「その他」であることは否定できないはずです。

 北方領土の総面積は「5,036km2」です。
 対するに、米軍基地の総面積は、専用基地に限っても「308,614km2」、共同の使用可能な基地なら「1,011,359km2」になるのです。
 前者で60倍以上、後者なら200倍以上になります。

 戦前にはなかったものが、戦争が終わってみたらこれだけ存在するのです。
 60分の1に対するこだわりが、どれほど不自然なものか、しっかり認識する必要があると私は思います。

2012年9月19日 (水)

四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題

 前回の文章は少々長くなりました。
 個々の論点にもそれなりの重要性があったとはいえ、一番肝心な点が長文の中に紛れてしまっては意味がありませんので、もう一度、議論の要点を確認しておきます。

 その前にひとつだけ。
 深沢さんは「オッカムの刃(オッカムの剃刀)」という概念をご存じでしょうか。
 思考経済の法則ともいわれています。一つのことを説明するのに、10の前提を必要とする理論と、3の前提だけで説明できる理論とがあった場合、後者を採用すべきだという考え方です。
 日常的な言葉でいうなら、素直な考え方、単純な理論の方が、ややこしいものよりは正しい可能性が高い、とでもなりましょうか。

 歴史的事実が、必ずしも単純であるかどうかは何とも言えません。しかし、歴史的事実を解釈するときには、やはりこの「オッカムの刃」を採用するべきでしょう。

 そこで、日ソ交渉。
 私の主張は、ぎりぎり譲って、以下のようになります。
○領土問題は二島返還で妥結することができた
○しかし、四島返還が持ち出されたので妥結しなかった
○日本が四島返還を持ち出したのは、妥結させないためだった

 なぜ妥結させなかったのかについては、「米国の意思に従った」と私は主張してきたわけですが、これを「米国の意思を顧慮した」と言い換えてもいいでしょうか。
 深沢さんは、日本政府の自主的な意思によると言っておられるのですね。
 とりあえず、妥結させなかった主体については今回は譲歩して、尖閣の領土権のように「棚上げ」してもいい、というわけです。

 歴史的な事実は以下のとおりです。
○日本は、日ソの国交回復交渉を始めた
○いちおう(見かけ上は)可能ならば領土問題も解決するスタンスで望んだ
○交渉の方針としては「二島返還」であった
◎「二島返還」の方針と整合的な「千島の範囲」解釈が、その時点まで採用されていた
○ソ連が、予想に反して、歯舞・色丹の返還を提案してきた
◎「千島列島の範囲」解釈が、このあと急に変更された
◎日本は、唐突に「四島返還」を要求することで応えた
○その結果、領土問題は解決しなかった

 ◎印の部分を説明するのに、深沢さんは、史実を無視した希望的観測やら何やら、いろいろ持ってきました。しかし、私の解釈は極めて単純です。「妥結させる意思がなかったから」。この一つだけです。

 上の様々な事実経過を素直に受けとめれば、「なんだ、ほんとは領土問題を解決する気なんかなかったんだ」と思うのが自然。自然も自然、大自然でしょう。
 他の解釈がなぜ出来るのか、私にはまったく理解できません。

 松本全権が(訓令に従って)ソ連側に提出した7箇条の「覚書」が『モスクワにかける虹』の30頁に出ています。そのうちの領土については、こうなっています。

(3) 歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案する。

 実際上の意味としては、少なくとも上記に挙げた地域のうちのいくつかは返還してもらいたいという意図を伝えたのですね。

 もし、択捉・国後が千島列島に含まれないのだとしたら、この二島は最初から諦めていたことになります。リストに入ってもいないのですから。
 当然そんなことは、ありません。千島列島の一部と認識していたので、覚書で上のような条項になったのですね。

 交渉の仕方の常識を考えていただきたいと思います。
 これまでのブログで書いてきたように、「南樺太・千島全島」の返還要求はブラーフでした。最初に大きくふっかけておいて、譲歩するような見せかけで本当に希望するところを獲得しようとしたわけで、これは我々の日常からも充分理解できる行動です。

 しかし、なぜ言及されてもいなかった択捉・国後が急に出てくるのですか。
 最初のテーブルには影も形もなかったカードをあとから出して、交渉をまとめられるはずがありません。
 深沢さんは、これをどう説明なさるのか。
 私の理由づけは、単純そのものです。「妥結させる意思がなかったから」。
 これは既に提出済みでした。何もかもこの一つで説明できてしまう。オッカムの刃でカットされる余地などまるでありません。

 「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳があります。
 私は講釈師(=講談師)ではありませんが、話はもう見え見えです。

 外務省では、ショックで上を下への大騒ぎ。
 「大変です。ソ連が歯舞・色丹を譲ってもいいと言ってきたそうです。これでは交渉が妥結してしまいます。どうしたものでしょう?」
 「あわてるでない。例の択捉・国後を持ち出してごねることにしよう。この二島は千島列島には含まれないから返還しろと迫ればいい。ほれ、北海道選出の浦口鉄男という議員が外務委員会でしつこく食い下がっていたではないか。1950年3月8日だよ。あれを、二島は千島列島じゃないという主張の根拠にするわけだ。日露通好条約の第二条と樺太千島交換条約の第二条だったな。あの条文が新しい千島定義の根拠になる。ソ連もこの二島まで譲るつもりは絶対にないから大丈夫だ。めでたく交渉決裂さ」

 私がなぜこの“転換”にこだわるのかを申し上げておきます。
 「四島返還論」が現在も生きているからです。
 税金を使った嘘っぱちだらけのプロパガンダで、政府はこれを国中に広めてきました。
 その「四島返還論」の“出自”は、こんなデタラメなものだったということを、私は指摘しているのです。

 出自が極めてアヤシイだけでなく、その根拠とされるところも間違っていたことが既に証明されています(その内容は次回に書く予定です)。
 国際的にもとうてい通用しない「四島返還論」に固執していては、百年かけようが千年かけようが、領土問題は解決しようがありません。

 今この現在の問題として、あやしげな「四島返還論」を葬り去ることが必要だと思うのです。

2012年9月18日 (火)

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

 以下のブログへの回答です。

深沢明人氏
4島返還論は米国の圧力の産物か?

 上記ブログの開設者がお書きになっているように、「ダレスの恫喝」を論じた私の文章は、一度手なおしをしています。
 最初のものは、同開設者に直接話しかける形で書いてあったのに対し、改稿版では「ダシ」にして論じるという客観的な記述の仕方に変えました。

 これは、せっかく長い文章を書いたからには、なるべく多くの人に読んでいただきたい――具体的には、上記ブログ以外の複数のブログにもトラックバックしたい欲が出てきた――からでした。BさんやCさんのところへ、いきなりAさん宛の手紙を届ける形式になってしまっては失礼だろうと考えて、書き直したわけです。

 今回、改めてコメントをいただき、それにお応えするのに前回・改稿版と同じような書き方はできません。最初のオリジナルと同様に、深沢明人というハンドルネームのこの方に直接話しかける形でこのあと書いていきます。
 一種の「論争」になると思いますので、深沢さん以外の方は、高みの見物ないしレフェリーとして、お楽しみいただければ幸いとぞんじます。

 また、見物の立場にとどまらず、議論に加わりたいと思われた方は、どうかご自由に参加なさってください。私は、プライバシー侵害などのあきらかな犯罪行為以外は一切「検閲」をしないのを方針にしています。コメント欄は開放してありますので、お好きなようにご利用ください。
 ただ、生来ものぐさですので、一つ一つにお応えできる保証はありません。

 さて、最初から「疑義」が生じてしまいました。

>> 本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあり
>>ます。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
>> したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田
>>氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
>> 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政
>>府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。

 正確を期すために最初に指摘させていただきますが、すぐ上の「本書に拠る限り」という部分は、意味不明です。こういう文言を無造作に挿入しているようでは、議論の信用性を失うでしょう。
 松本俊一の著書が典拠だとは池田は一言もいっていないのに、「本書に拠る限り」として批判するのは明らかに不当で、議論の体を生していません。

 もう一つあります。
 誰の解説であろうと、その主張をこんな風に無批判に受容してしまうのは困ります。「話を聞きません」と言えるほど、深く広く文献を渉猟している人など、日本に何人もいないでしょうから、これを「実際」とするのはあまりにも不用意です。
 深沢さんがいつもこういう感じで様々な文献を受けとめられているのだとしたら、私たちの対話の行く末はかなり悲観的だといわざるを得ません。

 「実際」の話をすれば、特ダネ報道のあと、各紙はいっせいに「ダレス警告」について書き始め、(一足遅れの他紙の)翌日の夕刊には早くもその内容に対する法的根拠にもとづく反論を掲げています。ダレスが「『永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ』といった趣旨の発言」をしたことに対する反論です。

 いや、そもそも『モスクワにかける虹』には何と書いてあったか?

同書 P.117
重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土にするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。

 これは、内容的には『永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ』ということではありませんか。領土になったら、ずっとそこにいるわけですし、別の国の政府が存続できるはずもないのですから。
 上の松本の証言自体が“又聞き”なのです。そういう“趣旨の”話を聞いたと書いているだけです。同じ趣旨を――意味内容は変えずに――違う文言で表現しても、間違った記述になどなりません。字面そのままにこだわる必要などないのです。

 深沢さんの文面解釈には、非常なバイアスが感じられます。
 我らが友人のアメリカがそんなことをいう“はず”がない。いや、私はそんなことは絶対に信じないぞ――そんな意思がなかったら、上記のような無茶苦茶な議論など展開しようがないと私は感じるのです。

 重光葵は、「ダレス警告」について質問する記者に、自分は知らない、何か知りたいのだったらダレスに聞いてくれというようなことを言っています。
 重光自身が記者に漏らしたのでなく、日本側に会談の内容が伝わったとしたら、情報のソースはほぼ明らかです。「すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた」と書いている松本俊一が記者にリークしたに違いありません。
 随行していた外務省のスタッフが漏らしたことも、まったく考えられなくはないのですが、当時の政治的な力学からいって、ほとんどあり得ません(二元外交と言われていた状況があったのです)。

 現に産経(時事)新聞の久保田記者が、松本から話を聞いています。
 また、帰国後、松本は各新聞社の記者に、多くの情報を伝えています。
 松本自身が会談の内容については、又聞きの関係にあります。松本から得た情報を複数の記者がどんな風に伝えていったかなど、とうてい簡単に特定できるものではありません。「ダレス発言の根拠は本書だけ」などというのは、とてもあり得る話ではないということです。
 海外の研究者からの聞き取りに、松本が「長時間の率直な」話をしたという事実があることも指摘しておきます。

 以上のような事情を深沢さんがごぞんじなかったとしても、少なくともつぎのように言うことはできます。
 ソースが松本だけ、と言うならまだしも、松本が書いた『モスクワにかける虹』だけだという断定には相当な無理がある。
 ダレスの言葉を、著書とは別な形で――さらに具体的に――第三者に語っていた可能性など当然に想定できるわけです。

 以上は、妥当な推測の話でした。
 改めて、重光・ダレス会談にもどれば、当事者はもう一人いたのでした。
 池田香代子をはじめとして、私たちが「ダレスの恫喝」について知り得る経路は、もう一つあります。米国の側の資料です。

 『「日米関係」とは何だったのか』という本があります。著者はマイケル・シャラー、草思社・2004年の出版です。そこに次のような記述があります。

P.214
ダレスは、重光がこの協定についてダレスの承認を得ようとするのに憤然とした。ダレスは重光にそっけなく、サンフランシスコ講和条約第二六条の規定によれば、「日本がソ連によりよい条件を与えた場合には、われわれとしても同じ条件を要求することができることになっている。ということは、日本が千島列島に対してソ連の完全な主権を認めた場合には、当然われわれの方も、同じように琉球列島に対して完全な主権が認められる、と思っているということだ」と述べた。日本との交渉で、「ソ連が強硬だったのに対して、アメリカは柔軟だった。アメリカはソ連同様、強硬になるべきなのだ」とダレスはつけ加えた。何とか妥協点を見いだそうとする重光の努力をはねつけ、ダレスは「ソ連が全千島を手に入れるなら、アメリカは永久に沖縄に居座ることになるだろう。そうなれば、どんな日本政府も存続できないだろう」と断言した。

 「どんな日本政府も」というのは、いわゆる琉球政府に言及しているのでしょう。
 巻末の原註によれば、上記記述の典拠は「Memorandum of conversation betweeen Dulles and Shigemitsu. Aug.19.1956」だとのこと。米国の外交文書ですね。
 この件については以上です。

>> 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景
>>にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない
>>以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。

 米国のロバートスン次官補が9月3日に提案し、9月7日に日本政府に渡され、12日に公表された覚書というのがあるんです。

 丹羽實による『日露外交秘話』という本があります。そのP.168~169に「在京英国大使館極秘電報公開事件」と題されたエピソードが載っています。本自体は別にしても、この話については、もしかしたらネットなどを通してお聞きになっているかもしれません。
 長くなるので、引用はしません。30年前の「極秘情報」が公開されてしまう現実があるのです。

>> しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでし
>>ょうか。

 これは、蓋然性が非常に高い妥当な推測、ほぼ事実というところでしょうか。
 分かりやすい例を書くと、緒方竹虎がCIAとつながっており、資金提供も受けていたのは証明ずみの「歴史的事実」です。コードネーム「POCAPON」も知られています(ふざけたネームみたいですが、正力松太郎の「PODAM」は既によく知られていますね。「PO」の部分が日本を意味するのだとか)。

 深沢さんが何を目的に、そう何もかもを曖昧にしてしまいたがるのか私には理解できません。やはり、米国をよき友人と信じたい心情がすべてに優先しているのでしょうか。
 北方領土問題そのものについては、このあとまとめて考えることにして、国交交渉について、議論を進めます。

>> 以前の拙記事で強調し忘れていましたが、松本は、米国の意向があった「か
>>ら」わが国は2島返還での妥結は不可能と見て領土問題の棚上げに転じたとは
>>言っていません。

 それは、あまりにも当たり前の話です。言ってはいません。そんな風に直截・露骨な表現がもしあったとしたら、もちろんそれで議論は終わりでしょう。そうは言っていない部分について考えているというのが大前提だと思っていました。
 何を「いまさら」、です。

 深沢さんの議論のあまりのナイーブさに少々びっくりしてしまいます。
 たとえるなら、こんな感じでしょうか。

○ここに一つのボールがある。
○このボールの色は赤か青である。
○このボールは赤くはない。

 こんな三つの言明があったとして、深沢さんは「どこにも『このボールは青い』とは書いていない」と主張しているのです。
 それは、たしかに書いてはいません。だからといって、ボールが青いことを否定するのは無茶苦茶な議論です。

 極端な喩えを持ち出しましたが、深沢さんの行論はこれと五十歩百歩です。議論の性質というものをもう一度しっかりと確認していただきたいと私は思います。

>> おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述が
>>あれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。

 ここにも深沢さんの議論の特徴が出ています。
 「はずです」という意味が分かりません。これは、単にご自分の希望を述べているだけです。

>> 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、
>>基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。

 ここも同じです。なぜ「見るべき」なのですか。
 何の根拠もなく、ご自分の勝手な希望と憶測を書いているだけだということがお分かりにならないのでしょうか。
 日本の歴史も何も、全然ふまえていらっしゃらない。

 五五年体制という言葉がありますね。いわゆる「保守合同」が1955年の11月です。
 私が“転換点”と見なした松本・マリク会談が同じ年の8月23日。
 自由民主党の日ソ交渉に関する“党議”が、合同のあとに決定されたのです。この決定は、私のいう“転換”を前提にしたものになっています。
 このあたりの推移をきちんと把握されてから、もう一度どう「見るべき」なのかお考えいただきたいと思います。

 ちなみに、吉田茂は四島返還もくそもありません。この人は、日ソ間の国交回復自体を否定していました。これは、鳩山一郎宛の公開書簡が残っています。「病弱で未経験な」鳩山が、外交をよく分かりもせずにソ連と国交を回復したら、日本は大変なことになると書いています。

 日ソ交渉の重層構造を把握しなければ、その本質は理解できないでしょう。
 重光は、歯舞・色丹の返還を主張しておけば交渉はまとまらないと考えていました。その上で、アデナウアー方式――つまり懸案は棚上げしてひとまず国交を回復するという方式――ではなく、平和条約締結を目指す正攻法で交渉をで進めていくべきだと言っていたのです。
 米国もややあやぶみ始めながらも、ソ連が歯舞・色丹を返すことはあり得ないと判断し、吉田も同様でした。
 日ソ国交回復に生命をかけた鳩山一郎自身も、見通しとしては上に同じくです。だから、彼はアデナウアー方式で行きたいと思っていました。歯舞・色丹の返還要求は、交渉ごとのツネとして、いちおう言っておくというものです。

 そういうわけですから、歯舞・色丹を返してもいいというソ連の申し出は、関係者全員にとって“ビックリ”ものだったということ。このことを無視したら、日ソ交渉を論じることができません。

 一度この当時の新聞を縮刷版でご覧になってはいかがでしょう。
 日ソ交渉における最大の障碍が、政府内の不一致だったというのは、既に“定説”です。
 『クレムリンへの使節』のあとがきで、久保田も忿懣遣る方ないといった調子でつぎのように書いています。
「国内政局が四分五裂し、政治家の野心と策謀が入乱れ、外交が内政の具に供せられた、最もひどい見本が鳩山内閣の日ソ交渉であった。」

 「見るべきだ」とお書きになった、上のご自身の文章をもう一度読み直していただきたいと私は思います。

 最後に一点だけ触れておきます。
 我々が無意識のうちに前提していながら、(無意識だから当然ですけど)前提していることに気がついていないことがあります。そして、それが我々の考え方・判断に重大な影響を与えている。
 「ダレスの恫喝」について、その内容の横車に我々は驚いたり怒ったり(人によっては何とも思わなかったり)するのですが、実はもっと重要なことを当たり前のように受け入れてしまってはいないでしょうか。
 日本にとっては、米国も外交・交渉の相手国であるはずです。日ソ交渉に関連していうなら、ソ連との交渉を一つの有効な取り引き材料にして、例えば沖縄の早期返還を促す、というような外交が当然考えられます。
 露骨にやりすぎてはいけないかもしれませんし、実際のやりとりをどういうものにしていいのかは、それとして按配すべきでしょう。しかし、こちらの手の内を完全に見られてしまっては、交渉にもなんにもなりません。

 つまり、日ソの交渉の機微を第三国に知らせるなどというのは、本来あり得るはずのないことなのです。ところが、それを当然のようにやっていました。
 また、そのこと――米国にいちいち“相談”すること――を我々も当然のように受け取ってしまっている。
 重光・河野・岸信介もこの時期に三人揃ってワシントンに行っています。一つには、保守合同の相談ということもありましたが、日ソ交渉についてのお伺いもたてていたのでした。

 深沢さんは、お気づきでしょうか。
 重光葵以降、戦後の外務大臣には外務省出身者が一人もいないのです(大来佐武郎は、ほんの一時籍を置いていたというだけです)。英語屋などと言われた宮澤喜一も、講和に随行したり池田勇人の外遊に同行したりして外交官のイメージがあるかもしれませんが、この人も出身は大蔵省です。
 戦前は「外交大権」の時代ですから、軍人が陸海軍大臣をやっていたのと同様に、外務省の役人たる外交官が外務大臣をやっていたのは当然です。戦後について、出身省庁を私は問題にしています。

 とりあえず今回は、あれこれの根拠は抜きにして私の推測をそのまま書かせていただきますと、外務省に外交をやらせていては日本の国益を確保することなどできないというのが「外務大臣=非・外務省出身者」の理由です。
 外務省に米国の意思が浸透していることの一つの表れだと私は思います。

 長くなりましたので、「北方領土」問題をどう捉えたらいいのかに焦点をあてて、残る論点を次回にまわします。

2012年9月16日 (日)

米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など

 前回ブログでの説明は、少々中途半端だったかもしれません。
 久保田正明氏の著書『クレムリンへの使節 北方領土交渉1955-1983』を参照できたこともあり、少し補足しておきたいとと思います。

 日ソ国交回復交渉は、1955年6月から1956年10月まで、約1年5カ月にわたって続けられました。その舞台と主な登場人物をたよりに時期を区切ってみると、次のような見方ができます。(「ダレスの恫喝」は1956年8月19日です)

第1幕 第一次ロンドン交渉
    第二次ロンドン交渉
  (松本俊一 マリク)
幕間 日ソ漁業交渉
  (河野一郎 イシコフ・ブルガーニン・フルシチョフ)
第2幕 第一次モスクワ交渉
  (重光葵 フルシチョフ)
****** ダレスの恫喝 ******
第3幕 第二次モスクワ交渉
  (鳩山一郎・河野一郎 フルシチョフ・ブルガーニン)

 共同宣言の調印にこぎつけたのは、もちろん第3幕の「第二次モスクワ交渉」においてでしたが、領土問題を別にすると、おおよそのところは既に第1幕で話がついていました。
 また、日ソ交渉における重要な“転換”はこの「第一次ロンドン交渉」の過程で起きていたのでした。
 こんなエピソードがあるそうです。

『モスクワにかける虹』写真キャプションより
 いよいよ共同宣言がまとまったとき、ソ連のブルガーニン首相は「鳩山さん、われわれは松本・マリク両全権の努力を盗んだに過ぎませんね」と、いかにも感慨深げに言ったという。

 日ソ交渉を理解するために問うべきなのは、「第一次ロンドン交渉」で松本全権がどんなミッションを帯びてロンドンまで出かけていったのかということです。一言でいうなら、彼にはどんな「訓令」が与えられていたのか?
 この「訓令」は、文書としては外務省書庫の奥深くに眠っているようで、いまだ公開されていません。
 しかし、幸いにも、そこで話が終わっているわけではない。なんとしても事実・記憶を風化させず記録に残しておきたいという関係者の強い意志があったと思われます。
 和田春樹による『北方領土問題』にこういう記述があります。

『北方領土問題』P.237
訓令は、鳩山のブレーンで防衛庁長官の杉原荒太と重光の分身、外務省顧問谷正久の間でつめられたといわれる。最終的には五月二四日閣議決定され、二六日に自由党と両社会党に説明された。この訓令は今日まで公表されていないが、鳩山、松本と近かった『産経新聞』記者久保田正明氏はその著書に「訓令第一六号」なる資料を引用している(『クレムリンへの使節』)。著者からの聞き取りに基づいて、必要部分を再構成してみる。

 訓令の内容を、久保田記者が交渉担当者からなんとか聞き出していたということでしょう。さらに後になって、それを和田氏が聞き取ったのでした。
 「訓令」における領土問題の扱いは、どうなっていたか。
 つぎのとおりです。

『クレムリンへの使節』P.74 『北方領土問題』P.238より
第一 交渉の目標(略)
第二 わが方の基本的立場(略)
第三
イ、ロ 略
ハ、領土問題
 (一)ハボマイ、シコタンの返還
 (二)千島、南樺太の返還
ニ 略
第四 交渉の重点問題
「前項の問題については、わが方主張の貫徹に努力されたく、とくに抑留邦人の釈放送還およびハボマイ、シコタンの返還についてはあくまでその貫徹を期せられたい」

 松本俊一氏の著書『モスクワにかける虹』では、こう書いてあります。

同書 P.31
(3)の領土問題についても、日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった。

 上記の二つを素直に読めば、日本側の意図がどのあたりにあったかは想像がつきます。
 領土問題として(一)(二)を主張しつつ、(二)の方は交渉の材料であって、実際に譲れないところとして希望していたのは(一)であったということです。

 ここに“転換”が訪れます。ソ連が思いもしなかった出方をしてくるのです。
 ロンドン交渉の相手方たるソ連のマリク全権は、八月五日「突如として」歯舞・色丹の返還を示唆する「趣旨をきわめて漠然と述べ」てきました。松本氏は、こう書いています。

『モスクワにかける虹』P.43
私は、最初自分の耳を疑ったが、おそらくこれはジュネーヴの巨頭会議へ出席したマリク全権が、フルシチョフをはじめソ連の首脳部と話した結果、新しい提案をする意図であろうと内心非常に喜んだ。

 同書の次のページには「交渉の終結も間近いのではないかと考えた」とあります。さらりと書かれていますが、この言葉は重く受けとめなければならないでしょう。「終結も間近い」です。

 ここで指摘しておきたいのは、つぎのことです。
 交渉の現場にいた松本俊一氏が、交渉の経過を推移のままに書いていたとしたら、執筆当時(一九六六年)日本国の「国是」とされていた「ウソ」を正面から反駁する結果になってしまったでしょう。内部の人間として、立場上それはできなかった。
(ベトナム戦争に関わる言動などからも、信念を持った硬骨の人だったと思われますが、ここはどうしても踏み込めなかったようです。それを代償するかのように――そこに松本氏個人としてのケジメの把握の仕方があったのでしょう――さまざまな取材に対しては、かなりディープなことを名前を伏せる条件なしに明確に語っています)
 『モスクワにかける虹』では、松本氏は虚偽の記述を避ける一方で、行間を読むことを期待する――分かるひとは分かってくれとでもいうような――省略の多い書き方をしています。

 「交渉の終結も間近い」と喜んだ松本氏の様子は、久保田正明氏の著書ではこんな風に書かれています。

『クレムリンへの使節』P.73
マリクを送り出した後、首席随員の高橋と二人きりになると、冷静な松本も興奮と喜びを隠そうとしなかった。
「軍事同盟は落す。ハボマイ、シコタンは返還する。これで日ソ交渉は出来上ったも同然だよ。ぼくらは本省の訓令どおり、いや訓令以上のことをやったんだ」
 二人はじっと手をにぎりあっていた。

 どうでしょう。
 これが、まだ未解決の「択捉・国後」返還が念頭にある人の反応でしょうか。

 「訓令第一六号」が示すとおり、日本政府は日ソ交渉を開始するにあたって「択捉・国後」などまったく問題にしていなかった。したがって、松本全権はハボマイ、シコタンの返還が約束された時点で、任務が完遂できたと喜んだのです。

 久保田・松本両氏の「証言」だけではありません。
 和田春樹氏の前掲書によると、田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究』(有斐閣、1993年)も「訓令第一六号」が上記内容を持つことの信憑性を立証しているとのことです。
 また、孫引きになりますが、D.C.ヘルマン著『日本の政治と外交』(中央公論社 1970年)にも以下の記述があるそうです。

D.C.ヘルマン
日本側の最初の提案はソビエトが占拠したすべての旧日本領土の返還を要求していたが、松本全権はそれに付随する訓令のなかで、領土要求に関する三つの区別を交渉のさいに考慮にいれるようにという指示を受けていた。その第一は、ハボマイ、シコタンは無条件に固有の日本の領土として主張すべきこと、そしてこれが最も大切な点であるが、これらの諸島の返還をもって、平和条約締結のための満足すべき条件と見なすべきこと。第二は南千島は『歴史的根拠』にもとづいて要求すべきものとして重要視されていたが、それは一般的協定のための不可欠の条件とは考えられていなかった。第三に北千島および南樺太は、たんに取引の材料として主張すべきものとされていた。

 さて、歯舞・色丹の返還という、この「朗報」は、しかしすぐには鳩山首相のもとに届きませんでした。
 もちろん、松本全権は東京の本省に電報を入れています。「極秘」よりも一段上の「機密電」でした。
 「機密電」を受けた方、外務大臣重光の動きを久保田氏の著書はこう書いています。

『クレムリンへの使節』P.79
(重光は)松本からの機密電を受け取ると、谷と門脇に固く口止めを申しわたしたあと墓参のため悠々と郷里大分に向かった。(略)
 新聞記者はもちろん、鳩山さえも、ソ連が重大提案をしてきたことをまだ知らない。
 ソ連の提案にいかに対処すべきか、さまざまの考えが墓参のあいだ中も重光の頭のなかをかけめぐったにちがいない。決心がかたまったのか、東京に帰るとまず外務省幹部会を招集した。

 幹部会の結論はこうです。
「ハボマイ、シコタンだけの返還で満足すべきでない。領土の決定は国際会議でなされるべきだ」
 以下、引用を続けます。

『クレムリンへの使節』P.80
外務省で新方針を決めると、重光は鳩山に会いに行こうともせず、八月二十三日羽田を発ってワシントンに向かった。軽井沢にいる鳩山のところへは、重光が羽田を発った五日もあとになって、やっと谷が代理として報告にいった。
「ソ連が、ハボマイ、シコタンを譲ると言ってきたことは予想外の成功だと思います。しかしこの件については米国の意向を聞いてみる必要がありますので、いますぐ妥結することは得策ではありますまい。とりあえずハボマイ、シコタンのほかクナシリ、エトロフをもう一押ししてみて、もし、それが駄目なことがはっきりしたら、そのときに妥結しても遅くはないと思います。(略)」
 巧妙な谷の説明を聞いて、他に情報をもたない鳩山はうなずくよりほかなかった。

 現在ネットなどで流布している「ダレス恫喝」からは、くみ取ることができませんが、重光葵は外相でありながらも、実はこの国交回復交渉に非常に消極的でした。
 また、立場は違えども、吉田茂も同様に――というよりもさらに強硬に――日ソ国交回復に否定的でした。

 また、外務省は吉田派の巣窟のようなものですから、以上の動きはすべて吉田の耳に間違いなく入っていたはずです。また、吉田を通じて――重光も報告に行っているのですが――米国にも情報が届いたのは間違いありません。米国が――どういう径路からであろうと――そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実です。
 鳩山一郎は(保守合同の結果として)そんな吉田派を党内にかかえ、またそんな外務大臣を閣僚として持ちながら、悲願の交渉をしなければならなかったのでした。
 『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社、1957年)に以下のような記述があります。

『鳩山一郎回顧録』P.177
私は、ロンドンからの情報を得るのに随分不自由をした。外務省には松本君からの会議の模様を詳細に報告したものが届いていると思うけれども、外務省は、いくら催促しても、それらしいものを私の手許に廻してよこさない。来るのは、大ざっぱな電報だけである。そこで八月には、ほかの用事もあってヨーロッパに出かける河野一郎君に頼み、ロンドンで松本君に合って激励すると同時に、実情を聞いてもらうことにした。
 案の定河野君からは、「松本君からは確かに詳細な報告を送っている」といってきたが、とうとう最後まで、私の眼にはふれなかった。

 そんな経緯のあと、外務省からロンドンの松本全権あてに打電された「新訓令」の内容は、以下のとおりです。

「新領土条項」
(a) エトロフ島、クリシリ島、シコタン島およびハボマイ諸島については、平和条約の効力が生じた日に、日本国の主権が完全に回復されるものとする。
(b) 南樺太、およびこれに近接する諸島ならびに千島列島については、なるべくすみやかにソ連邦をふくむ連合国と日本国とのあいだの交渉により、その帰属を決定するものとする。

 「新訓令」の意味は当然お分かりになると思います。
 交渉の妥結を実現させないために、わざわざ新たな障碍をつくったということです。
 前回からの続きとして言うならば、ひとりの国務長官の言動に尽きる問題などではなく、もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があったのです。

 少々長くなりましたので、「択捉・国後は千島にあらず」論、「日本固有の領土」論などについて、また機会を改めて書きたいと思います。

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