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2012年10月21日 - 2012年10月27日

2012年10月26日 (金)

エリート主義×、ポピュリズム×

 『ジャガーノート』という往年のパニック映画の中で、リチャード・ハリス演じる爆弾処理班のリーダーが、やけになってこう言います。「千数百人の人命なんてゴミみたいなもんだ。宇宙の塵さ。みんな死んだって大した問題じゃない」

 彼は最終的には爆弾犯人との対決に勝って乗客を救うのですが、日本の現状を考えるとき、ふっと同じような諦めを持ちたくなることが私にはあります。

 国はいずれは滅びるものだ。
 日本という国が一つなくなろうと、別に大したことじゃないだろう、と。

 しかしまた、
 もし幸いにして何とかなるものなら、何とかなってもらいたいものだ、とも思います。
 そのために自分に出来ることが何かあるのなら、やっていきたい、と。
 そんな風に思うことで、わずかに気力を取り戻すことが出来ます。

 日本は、政治でも経済でも、明らかに失敗を続けています。
 民主党を政権の座につけたのは――それを「だまされたのだ」と言うのはもちろん可能ですが――どう言いつくろおうと、間違いなく失敗でした。

 管直人も野田佳彦も、何かをなすために政治家を目指したのではなく、政治家になること自体を目的としてきた政治屋です。
 前原誠司しかり、岡田克也しかり。
 彼らには、志というものがまったく感じられません。

 彼らは、何か実現すべき夢を語ったでしょうか。
 キング牧師のように「I have a dream.」と私たちに語りかけたでしょうか。

 いわく「最小不幸社会」。
 いわく「消費税増税」「決められる政治」。

 でも、いずれにしろ既に過去の話です。
 民主党は、村山富市の社会党のように絶滅すればいいだけです。

 私たち国民としては、失敗したら、それを認めてもう一度やり直せばいいと思います。それが民主主義の利点のひとつなのですから。

 問題なのは、何度も試行錯誤を繰り返している余裕があるのかどうか――これだけです。

 思考実験というやつです。
 原子力ムラの住民たちを覚醒させるためには、もう一度、原発事故が起こるしかないのではないか、という説があります。
 でも、もしかしたら、もう一回事故が起きたとしても、なんだかんだ言いつくろって、彼らは一切変わらないかもしれません。

 どちらが“ありそう”でしょうか?

 原発の事故が明らかにしたのは、エリートたちのダメさ加減でした。
 これには、政治家や官僚ばかりではなく、学者やマスコミ関係者も含まれます。

 「原発は構造上爆発しない」と断言した斑目春樹が、現実に爆発してしまったあと、管直人から「爆発しないと言ったじゃないか」と問いつめられときに、「アチャー」と奇声を発して頭を抱えてしまったという話があります。
 本質的には悲劇であった事故をそのまま笑劇にしてしまった醜態は、このあとも出演者を替えながら果てしなく続けられています。

 福島の事故がエリーティズムを終焉させた一方で、今の日本に露呈しているのはポピュリズムの危険性です。
 国民の多くが、生活実感とは何の関係もない領土問題に熱くなり、大した根拠もなしに「固有の領土」を信じ込んでいる現実があります。
 無責任で政治家としての適格性を欠いている扇動者たちが、いまだに支持され続けている現実があります。

 エリーティズムもだめ、ポピュリズムもだめ。
 可能性を見るべきは、至極当たり前のこと、しっかりと自分の頭で考えようとする賢明な市民を増やすことだけなのでしょう。 
 実は一番むずかしいことなのかもしれません。

2012年10月24日 (水)

電子書籍版『鳩山一郎回顧録』PDF版・Kindle/mobi版・ePUB版

 DL-MARKETで、もう一冊、新しい電子書籍の販売を始めましたので、ご紹介させていただきます。

『鳩山一郎回顧録』 PDF版

『鳩山一郎回顧録』 Kindle/mobi版

『鳩山一郎回顧録』 ePUB版

 現在は、期間限定で以下のような形の配布もしております。

『鳩山一郎回顧録』 ePUB+PDF版

『鳩山一郎回顧録』 Kindle/mobi+PDF版

 サイトでは、こんな感じでご紹介しています。

***************************************************

 鳩山一郎による『鳩山一郎回顧録』の電子書籍版です。
 昭和32年10月に出版されて以来、長らく復刊の機会を得られなかった名著を、PDF版、Kindle/mobi版、ePUB版の3つの形で、新しくよみがえらせました。
 旧字・新かなだった表記を、新字・新かな表記に改め、読みやすい形にしてあります。

 政治家の回想録としては、破格に属する本でしょう。
 自己正当化に走ることのない、ユーモアをまじえた淡々とした語り口には、多くの方がきっと魅了されるにちがいありません。
 飾り気のない、暖かい人柄がそのまま行間から伝わってきます。文章の読みやすさは、サンプル版からもお確かめいただけると思います。

 戦後の活動を主なテーマとして、合間に子供時代のこと、文部大臣を勤めた戦前のことなどにも触れた回想手記です。

 組閣直前の公職追放、軽井沢での「晴耕雨読」、復帰後の政権奪取、保守合同、日ソ国交回復など、戦後史の重要な時期が、内側から生き生きと描かれています。

 「親米」と「反米」、「憲法改正」や「再軍備」の問題など、単純な図式としてではなく、当時の政治家が現実の課題としてどのように向かい合っていたかをじかに感じ取ることができる貴重な資料です。
 戦後史への関心が高まっている現在、当時の日本を代表する政治家・鳩山一郎の証言に耳を傾けてみることを強くお勧めします。

2012年10月23日 (火)

原発推進派のウソ――藤井聡の場合 その2

 前回の記事にコメントをいただきましたので、それを参考にしながら、少し補足したいと思います。

 藤井聡京大教授が、原発の危険性を自動車運転のそれと比較して論じています。
 この記事です。

 原発は,議論以前に安全強化すべし

 コメント氏が、藤井の論点を要約してくださったので、引用してみましょう。

藤井氏の主張をまとめるとこうなります。

1 クルマは100%安全ではない = 原発は100%安全ではない
2 しかしクルマの廃絶は現実的ではない = 原発の廃絶は現実的ではない
3 クルマの代替物がない = 原発の代替物が無い
4 自動車運転の安全強化が必要 = 原発の安全強化が必要
(元の文章は箇条書になっていませんでしたが、便宜上変更しました。他は原文のまま。

 コメント氏は、「=」の左項に「自動車運転」を、右項に「原発」を置いて、双方の対応関係を明確にしようと意図したみたいです。

 私の感想を言うなら、

 2は、藤井がそう思っているだけです。国土強靱化というなら、何をおいても、原発の廃絶を「現実的」にするべく、少しは汗をかくことをなぜ選択肢にいれないのでしょう。

 3の「原発の代替物が無い」というのは、今年の夏の電力需給によっても、既に事実として否定されています。

 とりあえず、個々の論点については、今回は深入りしませんが――。

 問題なのは、4です。
 藤井の文章ではこんな具合いに書かれています。

安全運転さえ心がけていれば,交通事故のリスクを完璧にゼロにするということは不可能であっても,「無数に考えられるリスクの中でも,クルマだけがとりたてて危ないものというわけではない」という水準にまで,そのリスクを軽減することは可能となるのだ.

 この文章から始まる章は、「安全運転────それしか無いのだ」というタイトルをつけられています。そのままで「バカボンのパパ」そのものですね。

 もう一度じっくり読んでみましょう。

「クルマだけがとりたてて危ないものというわけではない」という水準にまで,そのリスクを軽減することは可能となる

 これは、とんでもない主張です。
 いわゆる強弁。
 大ウソと言ってもいいでしょうか。

 たとえば、自転車やスケートボードによってでも、死亡事故が引き起こされることはあり得ます。
 道を歩いているだけでも――何か落ちてくるかもしれないし、マンホールのフタが外してあるかもしれないし――それこそ「無数」のリスクが想定できます。

 しかし、その「無数」のケースをさしおいて、藤井が自動車運転を持ち出してきたのは、それを原因とする事故が現実に発生していて、被害者の死亡も数千に上るからでした。
 これは、たまたま――何の因果か――そんな結果が出ているのではありません。そういう被害を必然とするだけのもっともな理由があるからです。それは、藤井も、国民の多くも認識しています。

 では、その理由とは何か。
 自動車の持っている圧倒的なパワー、です。
 自動車にぶつけられたら、高いビルの上から飛び降りたのと同じくらいの衝撃を人は受けます。このパワーが問題だと誰もが思っているのです。

 言い換えれば、潜在的な危険性の大きさです。

 つまり、スケボーや自転車の運転にもリスクがないわけではない。しかし、潜在的な危険性の大きさがまったく違うので、それらと自動車を同列に論じることはできないのです。
 同様に、自動車と原発では、危険性の大きさはまったく比較を絶しているというのが、無視してはいけない事実だというわけです。

 少なくとも1年半以上以前に書いていたのならともかく、実際に事故が起きたあとに、このような文章を書くことが出来る藤井の無神経・無思慮は、ほとんど犯罪的であると私は思います。

 もうひとつ。
 私の前回の記事に、不明瞭なところがあったのでしょうか。自分としては、あまりにも当然と思えたところが充分に伝わっていなかったかも知れませんので、もう一度あらためて書いてみます。

 自動車事故にしても原発の事故にしても、要は「危機管理」ということでしょう。

 「危機」に関しては、「どのようにして起こさないか」が重要であるのは論を待ちません。藤井の主張は、主にここを論じているわけです。

 しかし、さらに、絶対に落してはならないのは「起きたときにどうするか」です。
 藤井の議論では、この点についての考えがまったく欠落しています。
 私は、そこを問題にしたのでした。
 お分かりいただけなかったのは、読者のうちのどれくらいの方々だったのか、私はなんとも言えません。

 正力松太郎が、日本で最初に原子力発電を導入したときにも、当然このことが問題になりました。
 というよりも、彼は原発の導入を急ぐあまり、決定的に重要なこの問題に気づくのが、致命的に遅かったのでした。

 正力は、原発購入を決定したあとになって、イギリスから「免責条項」を伝達されて大いにうろたえます。
 原発で事故が起こっても、イギリス政府は一切責任をとらないと言ってきたのです。事情を書いた本によると、“この「免責条項」には「原子力発電はまだ危険がともなう段階にあることを再認識して欲しい」という一文まで入っていた”とのことです(『原発・正力・CIA』 新潮新書)。

 問題は、事故が起こった場合の「補償」をどうするかです。
 正力松太郎は、総理大臣の席を手に入れるために原発カードを利用しようと考えていました。そのためには、様々な規制が入り、原発導入までに時間がかかりすぎる政府主導ではなく、民間主体の方向を無理矢理とろうとして、ひとまずはそれに成功したのです。

 しかし、「免責条項」をつきつけられて明らかになったのは、民間主体の事業であるなら、補償も当然ながら民間で行なうべきだということです。
 藤井教授やその同調者とは違って、正力には(私たち一般市民と同様に)その「補償」がとてつもない規模になることが見えたので、彼はあせりまくったわけです。

 結局、1961年に「原子力損害賠償法」という法律が成立しました。
 民間の企業が引き起こした事故を日本国政府が「補償」する形の、いびつな法律がともかく出来上ったのです。

 この法律では、民間企業が50億円までの賠償については責任を負うことになっています。それ以上の部分を政府が引き受けるわけです。
 しかし、50億円というのは、原発事故への対応としては問題外に小さな「保険」と言わざるをえません。

 藤井の「原発=自動車運転」論に引きつけて言うなら、この部分の補償は、自動車における「自賠責」みたいなものです。
 50億円までの賠償を前提として電力会社に原発操業が可能なように、自賠責に入れば――法律上は――自動車で公道を走ることが可能です。

 しかし、自己所有車の車両保険部分を省略するまではよしとしても、対人・対物の任意保険に入らず、いったいどれほどの人が自動車運転をできるでしょうか。

 今回の福島原発事故で明らかになったように、政府による事故補償はまったくいい加減なもので、制度として確立しているとはとうてい言えません。

 本来なら政府は、東京電力を会社更生法の対象にして、補償を組み立てていくべきでした。政府の補償は、税金という国民負担によって行なわれるのですから――まずしっかり被害を補償しながらも――可能な限り少なくするべきです。株主の有限責任は当然の前提でしょうし、融資した銀行の債権放棄も求めなければいけません。

 ところが、政府が行なっているのは、まったく逆です。
 被害の補償を最小限にしつつ、株主・銀行の利益は最大限に守ろうとしています。
 放射能汚染された「ふるさと」に帰ることを可能にしたり、安全基準値を引き上げたりするなど、補償をいかに“値切る”かに狂奔している政府には、保険・補償の発想は皆無です。

 「事故が起きたらどうするか」という問題に対する答えは「事故は起きない」だったのが原発政策のすべてでした。
 これが――「論理的」に――答えにも何にもなっていないのは、言うまでもありません。
 「論理の破綻」を言うなら、この原発政策についてこそ言わなければならなかったのでした。

 そんな次第で「事故は起きない」という答えは、実際に起きてしまった事故の前では、笑うに笑えないナンセンスでしかありません。
 対応が右往左往に終始しているのは、「論理的」な必然だとも言えるでしょう。

 賠償の基本は「原状回復」だということになっています。
 これは本来は、もともと不可能な話です。
 へこんだボディを鈑金加工で治しても、本当は「原状回復」でも何でもありませんし、仮りにドアのへこみ一つを理由に新車と交換しても、それまでに乗っていたクルマそのものではありません。
 傷ついた肉体が本当に「原状回復」するのは不可能ですし、人命が失われてしまったらどうしようもありません。

 しかし、ともかくもこれまでの社会的な営みの中から、お互いに最低限受け入れ可能としてきた合意が形成されている事実は否定できません。
 そういう意味で、自動車の運転に関しては「事故が起きたらどうするか」に対する答えはコンセンサスとして存在しています。

 しかし、原発については、これに対する答えがありません。
 答えがない事実に対して、藤井は「それでいいのだ」「安全運転――それしか無いのだ」と言っているのです。

 こんな主張が許されないのは、当たり前ではありませんか。
 なぜ、こんな当たり前を説明する必要があるのだろう? 書きながら、書き終えて、私は感じています。

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