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2012年12月30日 - 2013年1月5日

2012年12月31日 (月)

「脱原発」の根拠――大多数の健全で合理的な判断

 前回は、どうやら「羊頭狗肉」になってしまいました。
 書き始めたら、予定よりどんどん長くなって、“根拠”にたどりつかないうちに「続く」にしてしまいました。

 余計なことを書いているとまた同じ轍を踏むおそれがありますので、肝心なところを最初に書いて、あとは余力のある限りということにします。

 「脱原発」の根拠には、何の複雑さもありません。単純至極です。

 何ごとにせよ、相反する立場のそれぞれに言い分はあるものです。また、その言い分の根拠はそれぞれに多岐にわたる場合が多いと思います。

 こんな場合、100の根拠・理由を挙げた方が、90の根拠・理由を挙げた方よりも妥当だと言えるでしょうか。そんなことはありません。最重要な理由が一つあれば、それに反対する理由が100あろうが、1000あろうが、その一つを優先すべきです。
 まあ、何が重要で、何を優先すべきかというところが難しい訳で、またその判断を下す資格がいったい誰に・どこにあるかが問われるのではあります。
 
 挙げようと思えば――いくらでも無限にとは言いませんが――私のような素人でも結構たくさんの根拠・理由を挙げることが出来ます。
 しかし、私としてはまず単純明快であることを尊重したいので、以下に単純明快なる「脱原発」の根拠を挙げることにします。

1 福島におけるような規模の原発事故が発生したら、
  それに「対処」することは基本的にできない
  それにもかかわらず事故発生の可能性があり、その可能性は決して低くない

2 原発を稼働することによって、放射性廃棄物が増え続けていく
  これを処理する技術は存在せず、
  後の世代に負債として残すのは倫理的に許され得ない

3 原発を稼働し続けるためには、現場で働く労働者の被曝が不可避である
  被曝が様々な障害を惹起することは否定できない事実である
  この被曝を前提にしなければ成り立たない原発稼働は倫理的に許され得ない

 たとえば、1についてさらに詳しく言うなら、こんなことが出てきます。

○地震多発国の日本に原発をつくるのは危険すぎて適当ではない
 地震によって事故が起きる可能性は大きく、
 いったん事故が起きたらその被害は天文学的なものになり、
 また取り返すことの出来ない国土の荒廃をもたらす

 広大な国土の隅に原発が立地しているならまだしも、日本のような国の場合、一回の事故だけで全土が汚染されてしまう可能性すらあります。
 「国やぶれて山河あり」とトホトホ歩きながらつぶやいた詩人がありましたが、「国栄えて山河なし」になったら、再起する道さえ閉ざされてしまうでしょう。

 稼げる間だけ稼いで、稼げなくなったら別の場所へ行けばいいというポリシーをとるなら、どんな危険性があろうと、今が稼げることを優先するのは確かに合理的な選択です。
 しかし、企業にそれが出来ても、大多数の住民にはそれは取り得ない選択です。
 「山河」の保全を優先するのが、大多数にとって合理的だと言えるわけです。
(以前、「国家」と「くに」について書きました。 「State」と「Nation」の違いです。「山河」というのは、「美しい自然」というような抽象的なものではなく、「Nation」である私たちの「くに」のことです)

 枝葉末節とは言いませんが、細かい問題はいくらでもあります。
 しかし、根本的なところは上の三つだと私は考えます。

 電気代が上がったら、企業が海外に逃げていってしまうという議論があります。
 これは、なんにでも応用が利く理屈のようで、「法人税を上げたら」とか「規制を強化したら」とか、いろんなヴァージョンが用意されているようです。
 しかし、企業がしていることって、最終的に「商品」を作ることです。いろんなカタチの商品がありますけど。
 「商品」っていうのは、そもそも売れてナンボのものです。これは、バカみたいな表現になってしまっていますが、それそのものなわけ。
 誰も買ってくれない・誰にも買えない「商品」を作ってどうなりますか。市場が必要だし、購買力を持った市民が必要なんです。賃金も払わないで、買ってもらうのだけは確保するって、どうしたら可能だと思えるのか私にはちっとも分かりません。

 だいたい「産業空洞化」っていうのは、四半世紀も前から言われているんです。

 もう一つ「細かい問題」を。
 石原慎太郎が(表現の綾ではなくて、まさにそれそのものの)バカの一つ覚えで言っていたのがアルミ産業のことでした。
 産業構造が時の流れとともに変わっていくのは、当然あり得る事実です。
 「産業界」が原発ゼロに反対していると言いますが、本当でしょうか。少し考えれば明らかなのは、原発ゼロになっていく方が儲かる人たちだって当然いるということです。
 「再生可能エネルギー」や「コジェネ」で一歩先を行っている人たちなどが分かりやすいでしょうか。

 現在の産業をそのままの形で継続させていくなんて、無理に決まっています。この無理を通そうとして押す横車は、無駄な努力というものです。無理を通すそうとするのは無理であり不自然だから、どうしても横車になってしまうのでしょうが。それが、「産業界」の代表みたいな顔をして、時々表に出てくる面々の醜さの理由だろうと思います。

 私が上に書いた「脱原発」の根拠三つは、普通の人が普通に考えていることだと思います。特別な情報があろうとなかろうと、自分の頭を使って考えることの出来る人たちなら、みんな持っている考えに違いありません。
 そういう大多数の人たちが、民主党政権の行なった調査でも「原発ゼロ」の意思を表明しました。

 そういう多数の意思を尊重しようとするのを「ポピュリズム」と評するものがいます。
 安倍政権はそういう国民の「希望」に応える意思がないと、とんでもない暴論を堂々とぬかしている。

 経済がどうこうと、知ったかぶりをして、大多数の普通の人たちの極々健全な判断を否定するものがいます。「脱原発」が十分すぎるほどに健全で合理的な志向だと分からないのでしょうか。

 電気料金が2倍になると、どこから聞いてきたのか。
 その試算をなぜ鵜呑みにするのか。
 私は不思議でなりません。
 大飯原発を再稼働しなければ、この夏は電気不足になると言っていたのも同じ情報源ではないのか。
 停電になる、生死の問題だと言っていたのが、みんなウソだったことは、既に分かっているのです。

 「脱原発」の是非について、何も難しい議論は必要ないというのが私の考えです。
 原発の維持・推進を自分たちの利益とする人たちがいることは間違いありません。それは、きちんと抑えておかないといけないでしょう。その人たちにはその人たちなりの根拠・理由があるのは当然です。生活がかかっているからと、原発の維持・推進を主張するのは、その人たちにとって合理的であり、また当然の権利とさえ言っていいかもしれません。
(「原発」の問題は、日本国内における南北問題の面があります)

 盗人にも三分の理、とまでは言わなくとも、そういう原発維持・推進派の唱える根拠・理由というものが、確かに存在することは認めてもいいでしょう。

 しかし、それに同意する必要はありません。

 それに同意したら、大多数の人間にとって非常なマイナスを結果するからです。
 
 以上が「原発」問題の構造だと私は理解しています。
 これから追求しなければならないのは、数の上では少数でありながら“声だけはでかい”彼ら原発推進派に牛耳られてしまうことなく、大多数の意思をどのように実現させていくか――つまり、民主主義の実現が問われているのだと思います。

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