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2013年1月6日 - 2013年1月12日

2013年1月12日 (土)

そろそろ本気で始めませんか――三大紙の不買運動を!

 テレビや新聞の報道を「マスゴミ」と言って批判するのは、私は十分に正当なことだと思います。

 民主主義が機能するためには健全なジャーナリズムの存在が大前提となります。
 最近は、よく「民度」の低さが云々されたりしますが、国民の「判断力」自体にそれほど問題があるとは私には思えません。(日本のどうしようもない状態がその次元にまで及んでいるとしたら、もう国が亡びるのを黙って甘受する以外にないでしょう)
 ただ、判断のための材料がしっかりと国民の一人ひとりに届いている必要があります。間違った情報をもとにして正しい判断を下すというのは、どう考えても無理です。

 まあ、これ以上あれこれ書く必要はないでしょう。
 みなさん、それが分かっているからこそ「マスゴミ」批判をされているのだろうと思います。

 私がここで提案したいのは、「朝日・毎日・読売」の購読をみんなでストップすることです。
 とりあえずの三大紙です。

 日本の新聞は購読料が高いと言われます。また、その理由の一つとして「広告費収入」の比率が他国に比べて極端に低いことが挙げられています。
 たとえば米国では「広告費:87%/講読料:13%」の比率なのに対し、日本では「広告費:35%/講読料:65%」となっています。

 日本におけるこの数字は、実は「地方紙」を含めたもので、三大紙に限れば広告費と講読料の比率は半々くらいとのことです。

 米国で民主主義が機能していない理由の一つが、この広告費比率なのでしょう。
 日本における比率の方が遙かに健全だということに気がつかなければいけません。(なんでも安ければいいという考え方にもとづいて「広告費比率の低さ→講読料の高さ→経営努力の少なさ」という論理を展開している論者もいますが、私は違うと思います)

 三大紙で少なくとも50%の比率を講読料が占めている!!!
 ここに、私たちのチャンスがあります。民主主義を取り返すチャンスです。

 この記事をお読みのみなさんにお願いします。
 三大紙に「抗議の不買運動」をかけようではありませんか。
 我々の声をしっかり受けとめない限り、権力に媚びへつらった腐った新聞など存在が許されないのだ――と教えてやろうではありませんか。

 「マスゴミ」に文句をつける材料を入手するために購読するのは、もうやめましょう。
 精神的にもよほど健康な毎日につながるはずです。

 いくらかの不便は出てくるかもしれません。
 それは各自が工夫して克服してください。

 連載小説に未練がある?
 連載終了後、単行本になるまでお待ちいただけませんか。
 宮部みゆきのように、単行本にするとき新たに章を書き加える場合だってありますから、かえって二重の費用を防げるかもしれません。

 三大紙に「日経」や「サンケイ」も加えた方がいいのですが、風呂敷を広げすぎない意味で、とりあえず今回は「朝日・毎日・読売」にだけ言及しました。
 もちろん、どこまで広げるかは各人の判断次第です。

 新聞をやめてしまっては不便になるという方には、私は「東京新聞」の購読を推奨します。
 「比較的に」ということになるのでしょうが、私の見たところでは「東京新聞」はマトモな方です。三大紙から「東京新聞(「中日新聞」)」に多数の国民が乗り換えたら、けっこうインパクトが大きい気がします。嘘っぱちの新聞を攻撃するばかりでなく、良心的な新聞をみんなで支持し、育成していくという方向が打ち出せますから。

 私は「東京新聞」の回し者ではありませんので、固執はしません。一つの案として出しました。他にもっと適切な選択肢があれば、どんどん出していただければいいと思います。

 ともかく、
 文句を言っているだけでは始まりません。
 そろそろ本気になって対抗手段に訴え始める必要があります。
(あまりいろいろ書くと焦点がぼやけるので今回は触れませんでしたが、同じ趣旨からNHKへの「受信料支払い拒否」についても考える必要があるでしょう。いま自動引き落としになっている方、どうか準備を始めてください)

 投票だけが民主主義のすべてではありません。
 行動しましょう、みなさん!

2013年1月 7日 (月)

脱原発の根拠――誰が決めるのか?

 今回は、やまんばさんからのコメントにお答えします。
 こちらの記事は、いきなり始まることになります。

 やまんばさんのご意見は、ちょうど最後のあたりに出てくる文章に集約されていると思います。

>>国民レベルでの議論というのは非常に大事なことだと思いますが、
>>絶対に脱原発が正しい!と思いこむような議論が健全であるとは思えません。

 上の意味するところを敷衍するとどうなるか?

A 議論するのは大事だけど
B 「脱原発」を主張するのは正しくない

 こうなります。

 私は「思いこみ」で議論しているわけではありませんし、自分が絶対正しいなどとは主張していません。自分が手に入れた限りの情報をもとにして、自分の頭で、特別なバイアスをかけることなく(以上はすべて「そのつもり」なのですけど)、判断した結果を文章にして発表したまでです。

 もちろん、あやふやな気持ちで書いたわけではなく、自分なりの確信を持って書いていますから、やまんばさんの印象がまったく見当違いだとは言いません。
 やまんばさんが私の記事について「これは違う」と感じたとしたら、私が迷うこともためらうこともなく、脱原発を支持すると主張したのに対してだと思うわけです。

 そこで、上の要約です。
 議論はしてもいいけど、「脱原発」という一つの立場を選択するのはよくないと、やまんばさんは「主張」されているのですね。

 これはおかしくありませんか。
 お互いに、何が正しいか分からないけど議論しましょう。
 どちらをとるとも選択しないけど議論しましょう。

 これで、いったいどんな議論をするのですか?

 ひところ――というより現在もそうなんでしょうか。もう定着し尽したので改めて意識されることもなくなったのかもしれません――構築主義とか社会構築主義とかいうものがもてはやされていました。これが文化相対主義の流れにいったりするわけですね。
 事実なんてないんだ、というようなことを言うのです。私は言っている本人も実際は意味が分かっていないアホダラ経だと思っているのですが。

 構築主義そのものについては、またいつか機会があれば書くことにします。
 私がお伝えしたいのは、何でもかんでも相対的だとしてしまう議論、何でもかんでも不可知にしてしまう議論は、自分は採用しないということです。

 たとえば、
 私は自分の主張が絶対に正しいことは証明できません。
 でも、これを言い換えると「絶対に正しいことは証明できない」ということは、絶対に正しいのではありませんか?
 これは、果てしなく続く論理ではなくて、あとの(「証明できない」ということは絶対に正しいという)方が正しいことは間違いないのですが、ただ証明ができないだけで、証明はできないけど正しいのです。

 もう一つ挙げてみましょうか。
 カラスは黒い鳥だ、という命題が絶対に正しいことをどうしたら証明できるか?
 これは無理ですね。どうやっても絶対に正しいなんて証明できません。
 しかし、この命題が間違っていることを明らかにすることは簡単にできます。白いカラス(そんな映画がありました)を一羽つれてくればいいだけです。
 なんの曖昧さもありません。間違っていることは、絶対です。

 つまらない話をしてしまったでしょうか。
 私の言いたいのは、この程度には人間理性は信頼できるということです。
 そして、この程度の判断力はたいていの人に備わっているということなんです。
 曖昧なことばかりじゃない、明白なことだってたくさんあるのです。

>>自分の頭だけで絶対に原発推進すべしとか脱原発すべしとか、どう考えても正
>>しい!などと思い込むのは、はっきり言って自分の理性の過大評価でしかない
>>と思います。

 あてずっぽうですが、やまんばさん(推定年齢12~72歳)に選挙権があったとして、あなたは日本維新の会に投票したでしょう。
 特にどうこうということではありませんが、急にそんな気がしたので書いておきます。

 で、「自分の頭だけで」という場合の「だけ」はどちらに掛っているのでしょうか?
 「自分の」or「頭」?
 あるいは、私(を含む一般市民)が「思い込む」のが「理性の過大評価」だとして、誰だったら違うのでしょうか。誰なら判断していいのでしょうか。

 そういえば、上の方にも書いたし、一つ前の記事でも書いたように、私は人間の理性について、ほとんどデカルト的な信頼(というより信仰?)を寄せているようです。どうも、あまりに古すぎて申し訳なくなってきました。

>>どうして専門家でも賛
>>否が分かれる技術的問題を、失礼な言い方で恐縮ですがあなた如きに正しく判
>>断できるというのでしょうか。はっきり言って私に不可能なことはもちろん、
>>専門家で判断が分かれる議論をどうして国民の多数が健全で合理的に判断でき
>>るというのですか。

 ここが重大な問題ですね。
 民主主義の根幹に関わる問題です。いったい国民に「健全で合理的」な判断が出来るのかどうか。

 やまんばさんは「出来ない」派になるわけですね。
 でも、そういう国民にも正しい「人選」は出来るわけでしょうか。

>>そうした健全な議論を行うと考えられる人格をもった
>>政治家を選挙で選ぶこと、それくらいではないでしょうか。

と書いていますが。

>>誤った判断を下して亡くならずに済んだ人を死に追いやってしまって、責任が
>>とれるのですか。そもそもそんな重大な判断を行う権利が、少々テレビで見た
>>とか本を何冊か読んだとかネットで調べたとかだけの知識しかもたない国民に
>>どうしてあるのですか。

 私はテレビは殆どまったく観ません。本を何冊も読んだのは事実だし、インターネットで調べてもいます。それだけでも、かなりの情報量を得られると思いますが、それでは不十分ですか?

 まあ、私の判断がそれだけで「亡くならずに済んだ人を死に追いや」ることはあり得ません。私は発言することで、多少とでも人に影響を与えられたらと思って書いているばかりです。判断することはあっても、「判断を下す」ことはないので、上のように「責任」を云々されるいわれはありません。

 それよりも、実際に人の生死に関わる判断を「下す」事態というやつを考えてみてください。これは、やまんばさんも例外ではありません。
 日本における「裁判員制度」です。
 法律の専門家でもない一般市民に人を裁く資格などあるのかどうか? やまんばさん流に言えば「どうしてあるのですか」?

 英米では「common sense」という概念があります。
 起訴状の書式がどうこうというような知識は専門家に頼らなければならないとしても、被告が有罪かどうかというようなもっと重大な、しかしもっと人間性そのものに関わる問題を判断するのには、専門知識などいらない、一般市民がみな持ち合せているはずの「common sense」さえあれば十分だ――という考え方があるのです。

 たとえばの話、家を建てるためには、大工さん(というより工務店ですか)に頼るのが合理的ですね。しかし、そもそも家を建てるかどうかの判断を、大工さん(!)に任せるでしょうか。

 つまり、原子力発電施設を実際に動かしていくためには専門家の知識が必要だとしても、日本国として原発をこのまま続けていくかどうかの判断は、国民が下すのが順当なのではないか。そう私は思うのです。

 これが認められないのなら、民主主義は成り立たないのではありませんか?

 やまんばさんのコメントを読んで、特徴的だと思ったのは、あらゆることを「議論が分かれる話」にしてしまっていることです。

>>>>また 原発を稼働することによって、放射性廃棄物が増え続けていく これを
>>>>処理する技術は存在せず
>>とお書きになっていますが、これは極めて技術的な議論であって、専門家と言
>>われる人の間でも議論が分かれる話です。

 私は、まったくそういう風には考えていません。
 もし、やまんばさんが上の主張を維持されるおつもりなら、いったい専門家の誰がどこで「処理する技術」があると言っていたのか、その特定の事実を教えていただきたい。
 特定の時に、特定の場所で、特定の人間が、特定の行動を取ったという「歴史的事実」
を(構築主義を否定する)私は実在すると思っているので、そうお聞きするのです。

 地層処分については、ひとつ前のブログ記事にリンクを張りました。
 廃棄物処分の技術については、こちらを参照してみてください。
(以下の記事にとどまらず、このサイトは参考になります)

高レベル放射性廃棄物処分の危険性と問題点
http://homepage3.nifty.com/ksueda/waste0000.html

 やまんばさんのもう一つの議論について。

>>しかし原発を止めた結果、原発を使い続けているよりも多くの国民が死ぬ可能
>>性も十分あると考えられるのです。経済が悪化した結果失業者や自殺者が増え
>>ることは十分に起こりうる事態です。

 失礼ですが、やまんばさんは「リスク」という概念を少々誤解されてはいませんか。

 原発が稼働しなくなっても必ずしも「失業」が不可避ではありませんし、「失業」したら「自殺」するという訳のものでもありません。
 エネルギー政策を進めていく上で、確かに考慮しなければならないモメントの一つではありますが、通常こういうことを「リスク」とは言いません。

 やまんばさんの議論だと、自殺がまるで自然現象のようです。人の意思の存在というものをまったく無視しています。
 放射能の被害にあって発病するのは、本人の意思とは無関係ですが、失業したときに自殺を選ぶのは一本道ではありません。失業した人が自殺を余儀なくされたとしたら、それは第一義的には社会の安全ネットワーク、社会保障の問題です。

 やまんばさんのおつもりでは大分ちがうのでしょうが、原発をとめたら自殺者が出るというのは「風が吹けば桶屋が儲かる」という理屈と本質的な違いはありません。
 そういう表現がお気に召さないのでしたら、レベルが違うと申し上げましょうか。

 やまんばさんは、まず個々のデータをしっかり収集されてから、お考えになった方がいいのではないかと私は思います。
 チェルノブイリの核汚染で、ウクライナの住民がどんな健康被害を被ったか、アトミック・ソルジャーたちがどのように苦しんだか、そういう具体的な事実を、まず把握されてから判断されたらいかがでしょうか。

 問題を抽象的に頭の中でころがしても、学生同士のディベートかなんかなら多少の成果を上げられるかもしれないけど、実際問題に有効な答は出てこないと私は思います。

 核廃棄物の話は「議論の分かれる」「技術的な問題」なんかではないというのが私の考えです。

>>福島の事故で何人が亡くなったのか、今後亡くなるのかはわかりませんが、そ
>>れ以上の人が原発を止めることによって亡くなられる可能性もあるのです。当
>>然逆もありえますが。

 話はもとに戻りますが、そういう訳ですから「原発を止めることによって亡くなられる可能性」という表現は、ちょっと杜撰すぎます。
 「失業したために自殺する可能性」というのも大ざっぱですが、まだマシです。
 では、なぜ失業したのか。
 会社が倒産したから、日本から海外へ移ったから、ということになるでしょうか。
 なぜ会社が倒産したのか? 電気料金が高くなりすぎて……。
 こんな具合いに続きます。

 では、なぜ電気料金が高くなったのか?

 ここに「原発を止めたから」というのを入れたいのでしょうけど、ここにも必然性はありません。原発が止まっても、他の手段でそれが補えればいいわけですから。
 要するにエネルギー政策の不都合で電気料金が上がったというのがことの本質になるでしょうね。
 結局、やまんばさんは全然レベルの違う問題をごっちゃにしているのです。

 さて、行ったり来たりしているみたいですが、私も結論に入りたいと思います。

>>必要なのは原発推進運動でも脱原発運動でもなく健全な議論です。
>>国民にできることや求められる義務は、知見をだし議論を行うことはもちろん
>>ですが、政府の議論が利害関係者の考えだけで進まないよう健全な議論が行わ
>>れるよう監視すること、そうした健全な議論を行うと考えられる人格をもった
>>政治家を選挙で選ぶこと、それくらいではないでしょうか。

 ここまで、私もとことん真剣に読み、考え、書いてきました。その過程で、どうもやまんばさんの年齢が分かってくるような気になってしまいました。
 男性か女性かは分かりません。でも、やまんばさんは13歳くらいの方だと私は思います。
 全然ハズレ! バカじゃないの? と言われるかもしれません。
 はずれる可能性の方が全然高いわけで、わざわざそれを書いてバカにされる必要もなさそうなものですが、このあとをどう続けるかに関わってきますので、あえて書きました。13歳の方に伝わるようなメッセージとして以下を続けます。

 やまんばさんの議論は、まったく不十分すぎます。
 なんの具体性もありません。
 上の引用の冒頭ですが、脱原発の運動というのはありますが、原発推進運動なんてありません。原発の推進は、そうする力をもった人間たちが、表立つことなく進めていることなのです。彼らには権力やお金がありますから、「運動」なんかする必要はないのです。

 脱原発を求める人たちには、力がありません。だから、デモをしたりするのです。そうやって自分たちの意思を表明していく必要があるからです。
 やまんばさんは「健全な議論が行なわれるよう監視すること」と簡単に書いていますが、それが可能だと思っているのですか。どんな形でそれを行なっていけるか、思い描けるのでしょうか。
 そんな「監視」なんか簡単にはできないからこその現状なのです。福島の事故も、そういう監視が出来なかったから起きたのです。

 「健全な議論を行うと考えられる人格をもった政治家を選挙で選ぶ」と書いていますが、どれだけ真剣に考えた結果の表現なのでしょうか。
 民主党政権の中にも、脱原発を誠実に求めていた議員が何人もいました。しかし、政権が実際に何をしたでしょうか。安全管理についての何の対策も講じないまま大飯原発の再稼働をやってくれました。

 専門家や有識者によろうがよるまいが、健全な「議論」の結果として原発の維持や停止が決まるものと、あなたは本当に思っているのですか?

 私は脱原発が容易に実現できるとは、まったく思っていません。
 脱原発を実現しようとするときに立ちふさがる壁の一つ一つを乗り越えていく、そのことに意味があると考えるからこその脱原発支持なのです。

 2030年代に原発ゼロを目指すという政府方針が、その直前に米国から横やりを入れられて、閣議決定までもっていけませんでした。なぜそんな妨害が入ったのか、なぜそれを受け入れてしまったのか、やまんばさんはご存じですか。
 そういう情報をしっかりと把握しようとしていますか。

 やまんばさんの意見表明というのは、私からはこんな風に見えます。
 「原発の問題については、どのように考えるのが正しいのか」
 どこでも通用するような正しい考え方なんてあると思っているのですか。

 脱原発と原発推進と、どちらが正しいかという「演習問題」なんかじゃないんです。
 ことは闘争であって、勝つか負けるかの問題なんです。

 私がなぜブログの記事を書いていると思いますか?
 少しでも世界に影響を与えようとして書いているのです。
 それは、太平洋の真ん中にワインを一滴落とすようなものかもしれませんが、それでも一滴分は変わるはずだと思ってそうするのです。

 やまんばさんへのお願いは、原発をどうしたらいいのか、自分の頭でしっかり判断を下してほしいということです。情報をできるかぎり集めて、それをもとにして自分で考えてみてください。
 その結果として、原発を推進した方がいいと思われるなら、改めてコメントいただきたい。いくらでも議論しましょう。
 また、脱原発に賛成だという結論が出たら、それを表明してください。一人でも多くの人に届くように。

2013年1月 6日 (日)

脱原発の根拠――反論にお答えして

 書き込みのあった順に、少しずつコメントにお答えしてきました。
 あと二つ残っているというのが現段階ですが、この際こちらのブログ記事の方でまとめてお話しをさせていただくことにします。
 「とある技術者」さん、「やまんば」さんのコメントについての私からのお返事です。
 こちらで書かせていただくのは、一つには原発をめぐる議論でよく出てくる論点を代表しているように思ったからでもあります。

 さて、原発とは関係ないような話から始めることになりますが――
 私は、ヒトの思考について以前からある種の思いこみを持っています。自分でも100%適用可能だとは考えていませんが、人と対話をする際に最初の前提として、そういうものが自分の中にあるということをいつ頃からか自覚するようになっています。

 それを簡単に言ってしまうと、意見の違いは「事実認識の違い」に基づいていることが殆どではないか、という考え方です。これは、「事実認識」さえ共有すれば、人はそんなに違う結論を導き出さないだろうということでもあります。
 たとえば二人の人間が同じ事件の現場にいて、まったく違った印象や見解を持ったりしたとしましょうか。それは、その場で目にしていたもの、注目していたものが異っていたところに由来するのではないかと思うわけです。

 もうひとつだけ。
 世の中でよく言われるのが「理系」か「文系」かという分類です。私はこれには信を置いていません。哲学に詳しい人が経済学についても同じかどうか分からないし、「理系」といっても「電気」系統を専門にしている人が、「化学」の領域に関して理解していることは「文系」の人とどれほど違うかも疑問です。
 私の兄は「理科一類」というやつでしたが、これは数学専攻でした。彼は、科学技術の実際については知識もなければ興味もありません。

 去年の夏以降に大きく展開された反原発「国会前デモ」ですが、あれは福島の事故から1年以上たってからの盛り上がりでした。
 うん十年前から脱原発を訴えていた人たちが“I told you so.”と言って始めたものだったとしたら、11年の3月か4月くらいから盛り上がっていたにちがいありませんけど、そうではなかったのですね。

 「国会前デモ」に参加した人たちも、みんな最初はテレビや新聞をとおして事故を知ったのでしょう。それが、いつの間にか「収束宣言」は出る、気がついたらマスコミが事故についてほとんど報道しなくなった――という状態になった時、「ちょっと違うんじゃないのか」と思い始めた。
 その疑問が、自分で調べ、自分の頭で考えるということに進んでいき、「このままにしてはおけない」という自分の考えを表現する手段を求めるにいたったのが、あのデモではなかったでしょうか。
(私自身は、そんな流れに遅れないようにヨロヨロと追いかけているくらいの人間ですけど)

 何が言いたいのか?
 ほかのすべてについてと同様に、原発について論じるにあたっても、多くの正確な情報を仕入れることなく、不十分な事実認識のままでは、いくら論理を重ねていこうとしても意味のある議論はなし得ないのではないか、とまず訴えておきたかった次第です。
 
 というわけつで、とある技術者さんのコメントです。

>>私は素材メーカーに勤めている技術者ですので、その観点からコメントしてお
>>きます。

>>これは、原発の型式によって“可能性”に大きな差があります。
>>福島第一原発は1960~70年代のを無理矢理動かしたことに加えて、東電のザル
>>管理のためにこんな事態になってしまいました。
>>ですから、安倍総理が最近言及していたように新しい原発に置き換えて、古い
>>のは廃炉にするのがトータルのリスクは小さくなります。

 福島第一原発は、一番古くて1971年、あとは74年、76年、78年の建造です。
 これらを「1960~70年代のを無理矢理動かし」と表現するのは、かなり無理があります。特に意図されてのことでしょうか。
 もし「Mark-1」型が危険だということを言いたかったのなら、はっきりそうお書きになればいいのにと思います。日本のマスコミでそういう議論がなされていない状況は異常といわざるを得ませんし、「Mark-1」に明確に言及した発言こそ積極的になさるべきではないでしょうか。

>>使用済み燃料の再処理によって成分分離後、ガラス固体化し、地層処分する技
>>術がありますよ。また、再処理をすることにより放射性廃棄物の体積を圧縮す
>>ることも可能です。

 ガラス固化については、以前のブログで触れたことがあります。
 「技術がありますよ」というような表現は妥当でないとそこで書いています。

 これについては、何重にもわたって問題があるのに、「ありますよ」で済ませるスタンスが理解できません。
 お書きになっていることは、文面としてウソはありません。
 「再処理によって成分分離後、ガラス固体化し」というのは確かにそうでしょうが、日本でいまどんな「再処理」が行なわれているか教えていただけますか?

 まず「再処理」が出来なければ「ガラス固化」は出来ないということ。
 日本では、その「再処理」もまったく見通しがたっておらず、六ヶ所村での「ガラス固化」は果てしなく失敗を繰り返しています。

 また、「ガラス固化」したものをすぐに「地層処分」することは出来ません。少なくとも30年、もしかしたら100年の間、冷却をしてから初めて「地層処分」のステップになるのです。

 そして、地震多発国の日本で「地層処分」が果して可能なのか。
 いろいろな注釈をつけずにひとことで言ってしまえば、それは不可能なはずです。
 まあ、とりあえず以下の記事を参照なさってください。
 
日本で高レベル放射性廃棄物の最終処分はできない
田坂 広志
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120913/236750/?P=1

 そして、前にも書きましたが、放射性廃棄物処分の「技術」は存在しない、というのが本質のすべてです。このことをとある技術者さんは認められないのでしょうか。

 とある技術者さんのコメントを読んでいると、まるで日本の原子力発電システムが何の問題もなく、事実として「まわって」いるみたいではありませんか。
 核廃棄物の貯蔵があと10年もしないうちに限界に来てしまうというのは、無知な素人が騒いでいるだけだとお考えなのですか。
 本当にそんな認識をお持ちだとしたら、何をかいわんやということになります。
 
 いや、技術の現状を言っているのではなく、可能性について書いたのだと反論されるでしょうか。
 そういう方向の話では「核融合」の技術を前提にして日本のエネルギー政策を論じることにも意味があることになってしまいます。

 確かにイギリスには再処理を引き受けてもらっています。
 しかし、イギリスやフランス、スペインやフィンランドも含めて、原発システムが実際に――本当の意味で――「まわって」いるところがありますか?
 私はどこにもないと思います。

 臭いモノにふた、といいます。
 地中に埋めるのは、これ以外のなんでしょうか。
 どうにも始末のしようがないから、フタをする如くに地中に埋めてしまおうというのです。このどこが「技術」なのですか。
 ダチョウが、その場から逃げる代わりに地面に穴を掘って頭を突っ込むという習性――本当かどうか知りませんが、それと殆ど変わらないのが「地層処分」だろうと私は思います。ダチョウと現代のホモ・サピエンス・サピエンスがそう変わらないとしたら、これは退化そのものです。

>>不可避だからと言ってしまうと、原発に限らず放射線装置類を扱う分野はどう
>>するんですか?

 これは、なんだか小学生が口をとがらせて言い募っている図を連想してしまいます。

 放射線技師と結婚すると畸形の子どもが生まれる可能性が高い、というのはデマです。
 少なくとも一般人よりは被曝量も多い、というのもデマです。放射線を扱うのと被曝するのは同じことではありません。
 全然レベルが違い、また実態が違う話を混同してはいけません。

 とある技師さんが所謂「ためにする議論」というのをしているのではないかという私の疑念は、こういうところを読むと強まるばかりです。
 これに続く部分にはお答えする必要はないと思います。
 現にアスベストは製造中止になっているではありませんか。原発について、それに対応するのが何かは、普通に考えれば誰にでも分かります。

>>>>電気代が上がったら、企業が海外に逃げていってしまうという議論があり
>>ます
>>先日、私の会社では電力料金の値上げのため、国内中心で製造していた製品の
>>一つを海外へ半分ほどシフトすることが決まってしまいました。当然、国内の
>>雇用は減少する傾向に入っています。“議論”ではなく、実際に起こっている
>>ことですよ。

 私の書き方が十分でなかったでしょうか。
 たぶん、たいていの人には私の意図通りの読み方をしていただけるのではないかと思いますけど。
 企業が海外に「逃げて」いくかどうかについて議論があると言ったのではありません。
 「逃げていくから原発を動かせ」という議論があるけど、それは妥当かどうかという意味で書いたのです。

 いくらでも海外に出て行ってしまっていいのだと言いたいわけではありません。そういうことも考えつつ、これからの日本のあり方を求めていく必要があるということです。
 そこを無視して、電気料金の心配をそのまま「原発再稼働」につなげる議論は短絡的すぎます。

 結局、とある技術者さんの主張をまとめると以下のようになります。

 原子力発電は、廃棄物の処理まで含めてトータルのシステムとして何ら問題ない。
 廃棄物処理を後の世代への責任先送りだとするオコジョの議論も間違い。つまり、後の世代に過重な負担・危険を強いる可能性はない。
 そこで働く人たちの危険性も、他の職業と比べて特に甚大ということもない。

 これは、事実を正確に受けとめることを拒否し、かくあらまほしき願望にもとづいた結論でしかないと私には思えます。

 原発を再稼働し、新たに建設することまでも支持するとある技術者さんの主張の、一番根底にあるのは、ただただ安い電力が欲しいということにつきるのですね(原子力発電を“愛している”わけでもないみたいですし)。
 しかし、原発と安い電力に必然的なつながりはありません。ですから、非常な危険を冒してまでその「原発による安い電力」を追求する理由はない――と私は考えるのですが、なにか錯誤があるでしょうか。

 原発による電力の料金とは、簡単に言ってしまうならば、おおむねリスク管理の費用です。「絶対安全」を無理矢理に前提していた従来までは、この費用を極めて低く抑えておけました。
 しかし、実際に事故が起きてしまいました。私が不思議でならないのは、この重大な事実をほとんど無視してかかっている議論です。とある技術者さんもまったくこの範疇に入っていますね。
 まず、事実をまともに受けとめてから、その先を考えていったらどうでしょうか。
 
 実際は、問答無用。何がなんでも安い電力料金が必要だと言い張っているだけです。

 福島で起きた事故の補償はどうなっていますか?
 これを組みこんだものが、原発による電力料金になるはずですね。では、それがしっかり組みこまれているでしょうか。
 
 人の住めないところに住むことを強要し、これまでだったら廃棄していたものまで食べることを強要し、気の持ちようで放射能被害も防げるとしているのが現在です。
 その住居を補償し、安全な食べ物を供給するのに必要な経費が、原発の電力料金であるはずだとは思いませんか?

 実際には、福島の事故のずっと以前(1990年代以降)から、原発の新規設置は頭打ちになり、従来よりも厳格な安全管理を求める声が高くなっていました。つまり、それまでよりも費用のかかる安全管理が必要になり始めていたのです。
 福島事故以前、どころか福島事故以前・以前にもどそうというような議論には明らかな無理があると私は思います。

 平井憲夫さんの残したメッセージを一度お読みいただければ参考になるかもしれません。私の書き込みは、もう少し続きます。.

原発がどんなものか知ってほしい
http://www.iam-t.jp/HIRAI/

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