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2013年6月23日 - 2013年6月29日

2013年6月24日 (月)

「思い出づくり」だってさ

 重篤な「失語症」におちいっていました。最近になって、やや持ち直してきたものの、“健常者”にはほど遠いありさま。そこからなんとかして抜け出すためのリハビリが、これから書いていく雑文です。
 内容はつまらない・どうでもいいことになりそうですが、書きやすいところから始めようという次第です。

 私の大嫌いな言葉についてです。
 いくつかあるうちで、「思い出づくり」はその最右翼。こんな低劣でイヤミったらしくて、意地汚い言葉はないだろうと思っています。

 自分の感覚から始めるなら、思い出なんか全然ほしくありません。
 歌の文句が言う「忘れてしまいたいこと」は山ほどあります。眠りへの導入を少々間違えて、変なとっかかりなどに触れてしまえば、忘れてしまいたい記憶の怒濤に、何時間もさいなまれてしまいます。
 たぶん一般的には「いい思い出」と言われるような記憶が、多少はないわけではありません。でも、「昔のよかった思い出」は、思い出すと胸がきりきり痛むばかりです。失われてしまった甘美な時は、それを思い出す切なさを考えれば、つらさの方が大きいように思えます。

 まあ、以上は私自身が如何に下らない人間で、下らない生き方をして来たかというだけのことでしかないでしょう。これを“論拠”にするつもりはありません。

 「思い出づくり」という言葉が、どうしようもなくさもしいのは、生きて行くことまでをも所有欲の対象にしていく欲望を含んでいるからです。
 自分の「思い出」目録を、まるで財産目録のように、ため込んでいくことのどこがいいのか、と私は思います。

 「思い出」を豊富に持つことが、人生を豊かにすると考えるのは大いなる錯覚です。
 貨幣が価値を持つのは、交換価値があるからですね。「思い出づくり」にはげむ人間が貯め込む「思い出」は、特定の個人だけに通用するものではなくて、交換可能な「資産」であるからこそ価値を持っています。
 たとえば、私はこの夏、どこそこで過ごした、という目録の1項目。あなたは、それを2つしか持っていないけど、私は3つ持っている。いや、私は4つ持っているぞ、とかとか。
 
 資産目録に載る経験は、交換可能なものでなくてはなりません。海へ行った、山へ行った、海外へ行った。そういう、コカコーラのCM のような、誰もが価値として認める経験でなければ、目録に載せられないのです。

 アホなことを言うな、と私は言いたいですね。
 思い出を作ろうとして過ごす時間なんて、馬鹿みたいに無内容に決まっています。
 実は、まったく逆が真実なのではないでしょうか。
 その経験をしている最中には、ひたすらつらいばかりだった経験が、後になって振り返ってみると、自分にとって何ものにも代えがたい意味を持つ「思い出」になっていたりする――こういうのが本当だと私は思います。

 そういう「思い出」は、決して普遍的な、交換可能な価値など持ちません。自分にとってだけ意味がある、そういう経験だろうと思います。
 しかし、生きるということは、誰でもない、自分自身の生を生きることではないですか。交換可能なものは、逆に価値のないものであり、交換不可能だからこそ、自分の生であるのです。

 自分自身の生すらをも「所有」の観点からしか考えられない――それを私は“さもしい”と感じます。
 こんな言葉が、いったいいつごろから使われるようになったのか。O.E.D.とは違って、「国語辞典」を見ても、推移は分かりません。
 物欲ばかりが社会を動かす、そういう時代の移り変わりと、この「思い出づくり」という言葉の広まりは、一致しているに違いないと私は思います。

 なんだか、がさがさした不格好な文章ですが、気にしていたらどうにもならないので、このままアップします。

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