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2014年10月19日 - 2014年10月25日

2014年10月24日 (金)

書評:ふしぎな「ふしぎなキリスト教」

 ひとことで言って、水準が低すぎます。
 『ふしぎなキリスト教』を駄本だなどと偉そうに書いていますが、それ以上にどうしようもない、何の役にも立たない愚作が本書です。

 私の言いたいのは、こういうこと。
 神ならざる身の人間に間違いはつきものですから、人のマチガイを指摘することそれ自体に大した意味はないでしょう。わざわざ本を一冊出版するほどのことではありません。
 重要なのは、マチガイを指摘することを通していったい何を訴えたいのかです。そこがこの本には欠如している。読んで啓発されるところが何もありません。

 具体的に申し上げましょうか。
 たとえば、編著者たちが『ふしぎなキリスト教』における最大のマチガイだとしている一点について――。

 「マルコによる福音書の最後の場面は復活の話の一環である「空の墓」の場面」(P.217)であり、橋爪氏の指摘は間違っていると書いていますね。
 これは、マルコ伝そのものに依拠しての論理ではなくて、マルコ以後の福音書における「復活」神話を前提にした議論なのです。マルコには、そんなものの「一環」を書いたりする何の義理もありません。それにもかかわらず、この本「ふしぎなふしぎなキリスト教」は、マルコ伝に、後から書かれたマタイやルカと一致する部分があることを理由に、その一節が神話の「一環」なのだと主張している。
 これは、まったくムチャクチャな議論です。

 こんなのが許されるのなら、何でも言えてしまうことになります。
 人が以前に書いたことを、なんでもかんでも自分たちの新説の「一環」にしてしまえばいいんですからね。

 マルコは、復活を書かなかった。肝心なのはそれだけです。書かれていることを、素直にそのまま尊重するということが、なぜできないのでしょう。たぶん、キリスト教の悪しき思考様式にどっぷりつかってきて、そのどっぷりであること自体もゼンゼン自覚できていないからでしょう。

 天使が復活を宣言しているではないか、とおっしゃるでしょうか?
 編著者たちは、推理小説を楽しんだりしたことがないのだろうか、と私は思います。
 登場人物にどんな嘘っぱちを言わせても、探偵作家はフェアプレイを逸脱したことにはなりません。ただ、地の文で嘘を書いてはいけないのですね。そんなことをしたら、非難ゴウゴウです。

 或いは、こんな感じ。
 橋爪某が「幽霊を見た」のが事実かどうかは、分からない。たぶん、かなり疑わしい。
 でも、「橋爪某が『幽霊を見た」と言った」ことは、十分に事実であり得る、のです。

 マルコは、地の文で「イエスが復活した」とは書いていません。
 どこの何者とも分からない人物が「復活した」と言っているだけです。この若者が「天使」であるかどうかなんて、誰にも断定できないのですね。もちろん、マタイが何と書こうと関係ありません。問題なのはマルコ伝における発言者が何者かですから。

 もちろん、マルコが「復活」に関する言説の存在を知っていたことは(当然)間違いありません。ただ、それについてどういう判断を下していたかは必ずしも明らかではないのです。最低限言えることは、福音書に書いてあるような書き方をマルコが選択したということで、それをそのまま読むかぎりにおいては、マルコ伝の作者は「復活」を事実あったこととしては書いていないのです。

 あとは表現の問題です。
 墓が空だったことまでしかマルコ伝には書かれていない、と橋爪氏が書いているのは別に間違いでもなんでもありません。顕現についての叙述などが欠如していることを指摘しているだけなのですから。その指摘の仕方、表現の選択については文句をいう筋合いはないでしょう。
 まさに「リテラシー」そのものの問題ですね。これが分からないのでは、もうまったく話になりません。

 さらに言うなら、マルコ伝の終り方が“唐突”であることは否定しようのない事実なのではないでしょうか。
 橋爪氏を弁護する気などありませんが、彼が言っていることは、大枠ではまったく妥当なのです。
 復活があったことの――信者に嬉しいような――記述はなくて、若者の言葉を聞いた婦人たちが恐れおののいて帰るだけです。ハレルヤを叫んだりはしていない。
 この唐突さをそうと受け取れないとしたら、編著者たちの感性は相当に鈍磨しているとしか言いようがありません。

 もしかしたら『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』の書き手諸氏は、全員が逐語霊感説とやらの信奉者なのでしょうか。マルコもマタイもルカもヨハネも、四つの福音書の記述に不一致も矛盾もなにもない。――理由があってそう結論したというより、最初から「そのはずだ」と思いこんでいて、他の可能性なんかまるで考えられない……。
 だとしたら、最初から話なんか通じるはずがなかったのでした。

 私は、編著者たちとはまったく逆の方向から『ふしぎなキリスト教』に対して否定的な評価をしています。素直に読むかぎりにおいて、この本は本質的に護教論なのです。

 橋爪氏の言いたかったのは、現代人にとってまったく“荒唐無稽”としか言いようのない「復活」を無理に信じる必要はない、それを受け入れなくてもクリスチャンであり得る――ということだろうと私は思います。
 同様に、クリスチャンであるためには進化論を否定する必要もない、というような科学との平和共存も訴えています(実際は、科学的思考とキリスト教が相容れられるはずなんかないのですけど)。
 「理性を通じて、神と対話するやり方のひとつが、自然科学です」とか書いてますね。
 この本は本質的にキリスト教擁護の本でしょう。そうでなかったら、キリスト教の体制側がテキストとして受け入れてしまったりしている事実が説明できないではありませんか。

P.217 ところが『ふしぎなキリスト教』は、この「美味しい信仰」の核を占める復活につき、「枝葉にすぎない」(橋爪氏)「無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある」(橋爪氏)「付録」(大澤氏)「二次的なもの」(大澤氏)とあっさり片付けてしまっています。

 せっかく護教してくれているのをわざわざ身内の方から否定しているようなものなんじゃないのかな。

 さて、もうひとつ重要なこと。
 編著者の一人の信仰告白によると、キリスト教を信じるのは「復活の生命に与る」ためであるとか……。

 なぜ、こんな表現しかできないのでしょう。まるで意味が分からないではありませんか。
 こんな日本語の使い方しかできないのは、根柢にウソがあるからでしょう。
 (「復活の生命」の「生命」が意味として複数なのか単数なのかも不明)

 こんなヘンテコリンな日本語ではなく、義務教育を終了している人間ならば、誰でも普通に理解できるような日本語で、自分の信念を表現できないのでしょうか。
 だって、何を言っているのかまるで分からない。何も伝わってこないのです。
 なぜ分からないかと言えば、分かるように書こうという意思がなくて、曖昧な表現でごまかそうとしているからにほかならない。深遠なことを言っているつもりかもしれませんが、意味不明なのをそう勘違いしているだけです。

 キリスト教を信じると、死後に肉体ごと復活することができるから、それを信仰しているのですか? 自分が復活したいために信仰しているのですか?
 キリスト教を信じないものは、復活しないのですか? あるいは、わざわざ復活させられて、そのあと改めて“地獄”とやらに送られることになるのですか?

 いやいや、現代人であるからには、エントロピー増大の法則にさからって、朽ち果てた肉体が元どおりになるなんて信じてはいない――それが真意でしょうか。
 復活の生命に与る、というのはもっと精神的な深い意味があるとか?

 肉体をふくめた「復活」が本当にあり得るとお考えなら、はっきりとそう書けばいいのに――そう書けない事情というのは、いったい何だろうと思ったのでした。

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