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2015年1月18日 (日)

「Je suis Charlie.」の和訳―― 「わたしはバカなレイシストです」

 フランスのテロ事件を追悼する行進に、安倍晋三が――連帯を表明しておきながら――参加することもなく、ゴルフをやっていたとのこと。
 ニュースサイトで読んだのだが、その後もう一度確認しようとしても、記事がなかなか見つからない。見つけにくいように官邸が手配しているのではないかと邪推してしまう。
 なんとか見つかったのが、以下の記事である。

 http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156371/1

 まあ、やたら胡散臭いことばかりではある。
「世界50カ国の首脳も集まり、腕を組んで行進してみせた」ことになっているが、その画像はインチキと言っても間違いではないようなものだ。
 “首脳”たちが、まるで150万人デモの先頭に立って、ともに行進したような印象を与え(ようとしてい)る画像は、実際とは全然ちがっていて、明らかな情報操作だ。
 警備上の理由で、民衆と一緒に行進することなどできなかったのだ、と弁護する人もいるが、絵の撮り方からして印象操作というしかない。“首脳”の後ろにサクラが数十人並んだのだが、そのまた後ろは誰も続かないスカスカ状態。それを撮り方で、大群衆が続くような印象にしている。
 警備上の理由云々に文句はない。しかし、実際とは違う印象に仕立てていることは間違いない事実で、それはインチキ以外のなにものでもないと思う。

 話は冒頭に戻る。
 安倍晋三が、そういう茶番劇への参加を蹴飛ばして、自らの快楽追求を優先させたのは高い見識を示した行為であった――としたら褒めてあげたいところだ。
 実際は、電車の中で化粧をする女性と同じようなもので(一緒の車輌に乗り合せた他の乗客をただの風景としか捉えない)、宗主国の米国様以外はすべて意識の外。オバマもケリーも参加しないのなら、自分も出なくていいだろう、というくらいの意識だったに違いない。

 それにしても、「Je suis Charlie. (私はシャルリー)」には、まいった。
 追悼行進した人のすべてがこのスローガンを唱えていたわけではないが、一定数以上がこのアホくさい念仏を支持していたのは事実だ。私は、彼らの知的水準のあまりの低さに呆れてしまう。デモ行進をするのに「わたしはバカなレイシストです」なんてプラカードをかざすヤカラがこうも多数存在するとは……。
 ちょうど、進化論を否定する人間が米国には結構たくさんいると聞いたときと同じような印象であろうか。
 私としては「Je suis fatigue.」と言いたい脱力感を覚える。

 「テロに屈せず」に「言論の自由」を擁護する、などと如何にも偉そうなことを主張する人たちに聞いてみたい。なんのために「言論の自由」を擁護するべきなのだろう。おそらく、「言論の自由」は保証されなければならないものだからというくらいの言い分しかあるまい。それでは堂々回りである。
 人間が価値としているもので、無前提に・無条件に絶対である価値なんてあるはずがないではないか。

 「言論の自由」が何を意味するのであろうと、その自由が実際にどういうことをしているのかは常に問われる必要があるし、なぜその自由が尊重されなければならないのかも、常に個別に検討される必要があるはずだ。「言論の自由」だから支持されるべきだ、などという論理はどう考えたってあり得ない。

 風刺という行為は、弱者による強者に対する手段として、存在理由があった。今回フランスのバカどもが支持した風刺において、いったい誰が弱者で誰が強者であったろう。
 テロ行為に対する抗議の表明として今回の行進に参加した人たちは、フランスという国家自身が“テロ組織”であることに気がついていないのだろうか。
 サルコジの時代だったが、平和で豊かな生活を享受していた国に理不尽な空爆を行って、17人どころではない、その数千倍の人たちの生命を奪ったのは“テロ”でないと思っているのだろうか。

 安倍晋三並みに、デモ行進なんかに参加するよりは家で酒でも飲んでいる方がよほどマシだと思う庶民もいたに違いない。行進に参加したのは、程度の差こそあれ、殆どが“意識の高い”つもりの人たちだろう。
 そういう人たちの知的水準が上記のような程度なのだから、救いがたいのである。

 それは、一つには、何が正しくて何が正しくないのかを判断する権利も能力も自分たちにあると思いこんでいる西欧人の錯覚に由来する救いがたさであるに違いない。
 彼らが始めた宗教学なるものは、宗教に発展段階があるとして、キリスト教をその発展の最高段階に位置づけようとしたガクモンだった。勝手な思いこみには学者も一般人も実は大した違いがなくて、イスラム教など下等な宗教だと決めつける意識が現在も共有されている。
 宗教だからダメなのでなくて、イスラム教だからダメなのだというわけだ。これは、とんでもない迷妄である。私は宗教批判を基本的に支持するものだが、今回のような“風刺”ですらない、下劣な揶揄などドブに捨てるにも値しないと考える。

 フランスの官憲が8万5千人も動員して、殺害することなく容疑者を逮捕できなかったとは、お粗末きわまりない。これに対する批判の声がいっこうに聞こえてこないのは不可解である。「言論の自由」を云々する人たちは、誰にも裁判を受ける権利があるという原則をなんと心得ているのだろう。
 犯人の射殺がすなわち事件の解決ではないことくらい分かりそうなものだ。裁判を通して、事件の真相を明らかにしていかなければ、いつまでたってもモグラたたきを繰り返すばかりなのだから。

 結局、裁判が始まったら困る、真相が明らかになってはまずい、のではないかという憶測にたどり着かざるを得ない。考えていくと、決まったようにこういう可能性にたどりついてしまう。
 陰謀論と陰謀の違いについて、改めて書きたいと思う。

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